コラム

自信 って・・・どういうこと??

・・・なんて、最近考える機会がありました。

字をそのまま解釈すれば、「自分を信じること」
大辞林には 「自分の才能、価値を信ずること」 と。

しかし、独りよがりな「自信」は、本当の自信ではないのでは?とも思えます。つまり、周囲からの評価であり、賞賛であり、何かしらの反応が自分以外から湧きあがり、それを実感として捉えることができて、初めて「自分の価値を認識することができる」のでは?と思うからです。

自分自身の地道な努力、失敗を繰り返しながらも前に進む力・・これも必須です。
これがあるからこそ、「自分の才能、価値を信ずること」ができるようになる。

しかし、これだけでは、人として何とも寂しい。
社会の中で生きていく私達にとっては、周囲の反応なしに「自信」をつけていくことは非常に難しい、そう思います。

自分自身の内外のそういった作業が繰り返される中、徐々に本当の自信が育まれるのでは?と思えてなりません。

実は、先日から、「吃音で困っている」という方とレッスンをする機会を頂いています。

人前で話す・・・そこに非常に緊張を伴い、言葉が出なくなってしまう(話せなくなってしまう)とのこと。

私との個人レッスン中は、全く問題なく話すことができるのですが、多くの人の前など、緊張感を伴う状況になると、言葉が出なくなってしまうようでした。

私にできることは、まず、この生徒さん全体の緊張を上手くコントロールできるように導くこと。そして次の段階、「話す」という行動の中で、それを生かしつつ、ご本人自身が自分を上手く使っていけるようにすること。「ちょっと時間をかけるつもりで、レッスンにいらしてくださいね」と言ってレッスンがスタートしました。

少しずつ、立ち姿、動きにも変化が見られ、発声の練習もするようになると・・・

とても素晴らしい、大きな、良い声が出るのです!

ご本人にとっては、「こんな声を出したことが無い!」ということでしたが・・・

しかし、私に幾度となく褒められても・・・ご本人の「自信」・・・そこに確固としたものがなく・・。つまり、現実の状況の中で、多くの人の前で「無理なく話せる」という事実が、ご本人にとって重要であり、必要なのです。

「急に劇的に変わることはないです。少しずつ、少しずつですよ。上手くいったり、いかなかったり・・・色々あると思います。でもレッスンで行ったことを忘れず、思い出しながら、実践してみてくださいね。」と、私は話していました。

ある日、レッスンに来られた瞬間、「あれ?今日はとてもいい顔をされてる!」という印象を受け、それを話そうかと思っていると、

「先生!いいことがありました!!沢山の人の前でスムーズに話せたんです!!」と。

とても自信に満ち溢れた素敵な表情でした。

自分の中で試行錯誤すること これも大切。
しかし、やはり・・社会との関わりは もっと大切。

人は社会の中で生きている。

そう、深く考えされられた出来事でした。

価値のある 「本当の自信」 日々 育みたいですね!!!!

 

「このシャツを着たとしたら・・・このズボンがベストかな??」
「全体がこの色合いだったら、この帽子が合うかな・・」    なんて・・・

我々は日々、「自分をコーディネート」していますね。
このようなファッションに関することに気を遣うのは、毎日の営みの一部です。皆さんにとっても、とても実感が持てることでしょう。

最近では、インターネットで好みの洋服のタイプを登録すると、コーディネート(全体のバランス、色合い、小物、靴など)を考えてくれ、それに見合った商品が送られてくるとか・・・。そしてレンタルとして着用することができ、気に入った場合は購入(自分のものとして)できるらしい!!

まさに「トータルコーディネート請負」ですね!


しかし「コーディネート」は、表面的的な身に着けることばかりではないのです。

我々自身が持つ、「身体」にも、コーディネートの視点が必要なのです!!

我々の身体には部位それぞれに名称がありますが(例:頭、腕、脚、胴体、手など)、決して独立したものではなく、互いに関係性を持って構成されています。そしてそれを統合させて巧みに使いこなさなければなりません。

単に、コーヒーカップを口元に運んでいる時も、パソコンの前でキーボードを打っている時も、はたまた、電車に乗り遅れないために猛ダッシュをしている時も、全ての部位がそれぞれの働きをしながら、関係性を持ちながら、統合されて使われなければなりません。正に、「コーディネートされた使い方」が必要なのです。

しかし我々の一般的な考え方では、身体を部分的に捉えてしまう傾向があります。

例えば、「鉛筆を持つときは手先だけを使っている」と思っていませんか?
動かしている部分だけを、「使っている」と考えてはいけないのです。動かしている部分を支え、力を上手く発揮するためにも、他の動いていない部位が協調して使われなければならないのです。その事に無関心だったり、勘違いを起こしていると、どこかに過度に負担がかかってしまい、肩が凝ったり、指が痛くなったり・・と何らかの問題が出てくることになります。

常に「トータルコーディネート」についての意識が必要なのです。

様々な健康関連の記事やTV特集、書籍などを見ても、ほぼ全てが、「部分的」な視点で解決方法を探っています。

「○○ができるように、○○筋を鍛えましょう」など
明るみに出た何らかの問題について、部分的なアプローチで対処しようとしています。

筋力をつけることは必要なことですが、どうして単独の筋肉に焦点を絞って考えるのでしょうか?この鍛えたい筋肉が単独で使われるはずなどないのです。筋肉は必ず他の筋肉と接近していますし、筋膜で覆われ、ひとまとまりとして連動して動きます。他の部位と互いに関係性を持ちながら、影響を与え、与えられ、活動しているのです。

そう考えると、筋肉単位を意識しての筋トレは無駄なのではないかと私は考えます。

アレクサンダー・テクニークでは、まずは「首と頭と背中の関係性」を重視します。そして、この基礎をもとに腕脚も含めた身体全体の統合された使い方を追求していきます。(注:勿論、メンタルにも焦点を当てていきます。)

この中で、必要な筋力が調和を持って使われ、身体全体としてバランスよく使われていくことを目指します。

目的は、正に「トータルコーディネート」なのです。

毎日、鏡の前で「洋服の組み合わせ」を考えるように
我々自身の「コーディネート」をいつも意識して欲しいと思っています。

自身のトータルコーディネートが上手くいけば!!!
その上に装う洋服のコーディネートも、容易になるはず・・・ですよね!!

 

「ええっ・・・・ そうなんだ・・」
「○○が気になって・・」

レッスンが進んでいくと、色々な質問が飛び出してきます。
最も重要なのは、指導者に投げかける問いではなく自分自身に向けられる問いです。

これまで考えたことがなかったような、色々なことに気づくようになるのです。

例えば「私は ○○な癖があったんだ・・」
   「どうして ○○に、今まで気づかなかったんだろう・・・」
   「こんな風に理解していたんだ・・」
   「この○○パターンを自動的に繰り返してたのね・・・」 などなど

自分自身の問題点が沢山見えてきて、時折、落ち込む方がいらっしゃいます。
きっと、粗が沢山見えてきて・・うんざりするのかもしれませんね。

そんな時私は必ず、「これは非常に喜ばしいことなんですよ!」とお話しします。

なぜなら、ここから変化が始まるからです!

これまで自動的に、習慣的に、当たり前として行ってきていることに、新しい光を当てるには、自分自身が「気づく」とういう作業なしでは進められません。それは、知的理解であったり、筋感覚が教えてくれる理解であったり・・・様々ですが、今、この場にいる、リアルな自分と向き合っているということです。これがなければ、真の変化は起こりません。

私がここで言う「気づく」作業とは、自分自身の現状を把握する(受け入れる)作業でもあります。把握し、受け入れる(←これは非常に重要)ことで、客観的に自己分析することができるようになるのです。

これが可能になれば、次の「では、どうしたらいいの??」という疑問に対処する段階へ、「自分で考えて選択する」ことができるようになるのです。

「気づく」ことが、新しい扉を開く(=新しい行動を選択する) 第一歩 となるのです。

我々の日常では、スマートフォンやパソコンなどに触れることも多くなり、自分以外のものに注意が向けられていることが普通になってきました。意識はあらゆるところを彷徨い、自分自身のリアルな今に向けられることは稀です。自分に「気づく」ことは非常に難しく、客観的に分析するのは至難の業です。

しかし、レッスンを通して、湧き上がる「気づき」が生まれた!

(今まで気づきもしなかったのに!)

正に、「初めの第一歩」です。

気づくことは 変化の始まり。
大いに楽しみましょう!!!!

 

先日、沢山の子供たちの「動き」を見る機会がありました。
特別な運動をしているのではなく、「自由に遊び回っている様子」です。

先月末、非常に大きな室内遊技場に行きました。○階建ての大きなジャングルジム(建物自体がジャングルジム)や、ロープにつかまって登り降りができる大きな遊具などもあり、とにかく子供達(小学生、幼稚園生など)は、大興奮で動き回っていました。

このような思い切って動き回れる場所があること、親としては非常に有難い!!(最近は公園などでもボール使用が規制されるなど、子供が思いっきり遊べる場所が少なくなっています)子供たちの大興奮の様子を大人たちも嬉しそうに眺めている・・そんな和やかな日だったのですが・・・

しかし、よくよく子供たちの動きを観察していると・・・
(これは私の職業病です!ついつい、目についてしまいます・・)

「あれれ??あんなにボールの扱いが上手な子が、ジャングルジムを怖がる??」
「走るのがすごく早いのに、回転できないの??」
「身軽な動きをするのに、ぶら下がれない?(握力がない)」
「ええええっ??」

・・・・・バランスの悪い状態が多々目についてしまいました。

特に子供たちの苦手傾向として私が気になったことは(簡単に挙げると)、
「身体を支持する動き」・・・・体幹を締めること、腕で身体を支えバランスをとる(倒立・鉄棒などで必要となる)
「身体が逆さまになる動き」・・頭が下になる(倒立など)
「身体が回転する動き」・・・・垂直軸の回転、側転、前転、後転など

*注 勿論、これらは複合的なので一つの項目だけで何か運動を行うことはできません。

何ともぎくしゃくとした動きで遊ぶ多くの子供たちを前に、思いついたことがあります。

それは、「日頃、偏った運動をしている」という事。

「○○運動教室」「○○スポーツクラブ」など、小さい頃から運動・スポーツの教室に通う子供たちが多くなりました。外遊びが十分にできない環境を補うには一つの良い方法ですし、何とかしたいと思う親心もあり、小さい頃からこういった習い事をする子供が多くなっています。しかし、この「○○教室」、実は偏った動きを繰り返すことになっているのでは?と感じています。

まだまだ複合的な動きが未発達の子供が、ある特定の運動・スポーツに偏って関わってしまうと、同じような動きばかりが繰り返され、その他の感覚が開拓されず、様々な動きををこなすことには大きな壁を作っているのではと思います。結果として、「Aは得意だけど、Bはあまりやったことがないので、できない」といった、アンバランスな状態を育ててしまうのです。本来なら様々な動きを経験する中で自然と発達していく身体感覚も、未発達のままで放置され、「不得意な動き」になってしまうのです

勿論、それぞれの人間には得意な動き、不得意な動きは必ずあります。(向き、不向き)
しかしあまりにも早い段階で、ある特定の運動にかかわりずぎる害を感じずにいられません。

こういった「自由に遊ぶ場所」で「自由に遊ぶ子供たち」を観察していると、普段この子供たちが何を経験してきているのかが、明確に表れてきます。「普段から運動を盛んに行っている子供が、ぎくしゃくしたアンバランスな動きで遊んでいる」のです。なんて残念なことでしょう!!

また、子供は本来、「大人の指示なく、自由に、遊びたい!」もの。
遊びの瞬間に出合った「こんなことをしてみたい!」という欲求が、動きを引き出し、失敗を経験しながら、運動能力が構築されていくのです。大人がお膳立てした内容の運動をこなすことだけが、運動ではないのです。そして、「自由に遊ぶ」中には、子供たち自身から湧き上がる「動機」が満ち満ちています。「○○教室」に通う前に、「自由に、思いっきり、遊べる場所」こそ、大人が子供たちに用意すべき環境なのかもしれません。


「思いっきり遊ぶ」ことで養われた身体感覚は、将来にわたって、真の基礎運動能力を育むことになります。そして、その先にある「専門的な運動・スポーツ」を極めたい場合には、真の素地となるのです。

アレクサンダー・テクニークの教師として、あらゆる年代の方々の動きを観察するのが私の仕事です。子供向けのレッスンに関しても、健やかな成長を願って内容も試行錯誤していますが、目の前で遊ぶ子供たちを目の当たりにして、改めて色々考えさせられました。

子供の健やかな成長を願う大人として必要な視点とは・・・・・
身体能力を引き出すために、複合的な「身体感覚を育てる」ことがまず重要、
その後に「運動・スポーツに親しむ」があるべきなのでは?

大型遊技場で懸命に遊ぶ子供たちを見ながら、
「遊べ遊べ!!動け動け!!沢山体験してごらん!身体も心も喜んでるよ~!」とつぶやく私でした!!





心と身体、それを統合させる重要性・・・
あらゆる分野で様々な方がそれぞれの知見を述べられています。

私自身は、「アレクサンダー・テクニーク(以下 AT)ができることは何なのか?」それを極めるためにも、書籍を読んだり、調べたりしながら、自分の考えを深めることが非常に重要だと思っています。その中で、非常に似た考え方をする部分があるもの、または全く異なる部分があるものなど・・・。共感したり、納得したり、あるいは否定的に捉えたり・・・様々なシーンに出合います。
それらを拾い上げる作業が日々の活動の一部となっているのですが、先日、非常にびっくりした本に出合いました。

それが次の本です。

「世界のトップエリートが実践する集中力の鍛え方~ハーバード,Google, Facebookが取り組むマインドフルネス入門~」
萩野淳也、木蔵シャエフ君子、吉田典生 著 日本能率協会マネジメントセンター

この本には、「え?ATのこと?」と錯覚してしまいそうなくらい似た視点が多々書かれていました。マインドフルネスに関する書籍はかなりの量を読みましたが、その中でもこれはびっくりするくらい酷似している内容でした。

目次の一部を挙げてみると・・
・立ち止まって考え、今までのやり方を手放す力
・今自分に起きていることに気づく力
・今この瞬間に、本領を発揮する力    など      (上記書 引用)

また、「脳」に関する研究結果を応用しながら「人間の反応パターン」について述べているところでは、F.M.Alexanderがおよそ100年前頃に書き残した書籍の中にある、彼の記述を読むようでした。

*ご興味がある方は、是非上記の書籍「世界の~」を直接ご自分で目を通されることをお勧めします。

マインドフルネスでは「瞑想」でこれらの能力を引き出すことを奨励しています。
しかし、これらの内容はATの中で求めていることと殆ど変わらないだろうと思います。

ATのレッスンでは、目を閉じ瞑想のようなことは行いません。しかし、自分の身体、自分の呼吸、自分の動き、自分の心の状態・・・・・などを丁寧に観察しながら、「自分の今の状態に気づき、習慣的反応を抑制しながら、どう行動していくか・・」ということを実践することができるようにしていきます。

ATはボディーワークの一種として位置づけられることが多いのですが、決してその域にとどまりません。「どう反応していくか?」があっての「行動」ですから、正に上記の書籍に述べられたようなことが含まれてくるのです。

実は先日、レッスンの問い合わせの中に、「マインドフルネスのためにも、レッスンを受けたい」という方がいらっしゃいました。

私自身は「マインドフルネスを教えることができます」と表現していませんし、表現することはできません(資格がありません)。しかし、分かる方にはその辺りの近しい共通部分を感じて、問い合わせされているのだと思います。

方法論も世の中に多種多様溢れており、それぞれの視点から「どうあるべきか?」を述べていますが、要は、皆「同じこと」を違う角度から捉え、違う表現で表そうとしているのだ・・と私自身は捉えています。(武道関連の書籍などにおいても、同じような内容を見つけることができます)

「人間として重要なことは?」という永遠の問いかけに対する答えを、我々は皆常に追い求めているのでしょう。

私自身も、追い求め、真実を追求する・・その面白さに虜になっている一人なのでしょう(笑)。

アレクサンダー・テクニークの指導者として何ができるのか??

さぁ、まだまだ探求の旅は続きますね!!

 

様々な考え、思考、アイデア・・・・
我々は、常時自分の中で何かを考え、感じ、行動を伴う自己決定をしています。

しかし、全ての事がいつも明確に理解できたり、決定的な判断を下せるわけではありません。「なんとなく・・」理解し、行動していることも多いように思います。

そんな中で、ふと・・「そうか!そういうことなんだよね!!」と深く納得がいく瞬間があります。正に「腑に落ちる瞬間」ですね。
*この「腑」という字は、はらわた、内臓を示します。「頭脳で理解できた」というよりは、「身体の深い感覚に染み込んでいく」ような納得の瞬間を表します。

この「腑に落ちる瞬間」が非常に面白い!と最近特に感じています。

疑問を解決しようと答えを必死に追い求めても、なかなか手中にすることができず、ずっと「なんとなく・・」疑問を抱えていることがあります。しかしある時、予想していなかった瞬間に糸口が見えてくることがあります。様々な物事に出合いながら、考え、感じ、思考が整理されるという事なのでしょう。力が抜け、「ふと・・」以前から抱いていた疑問に対して、深い理解の滴がぽたりと「腑」に染み込んでくるのです。

それが起こるのは、歩いている時かもしれないし、本を読んでいる瞬間かもしれない。はたまた、仕事中だったり、電車の中で吊革を持ちながら揺られている時かもしれない。予想できない瞬間に起こるのです。

実は最近、何十年も前に読んだ本が、現在の私の思考と繋がり、深く深く自分の中に染み込んでくる体験をしました。その当時、興味があったからこそ読んだ本だったにもかかわらず、全く理解できませんでした。しかし、今現在の自分が惹かれることと、どこかで深く繋がっていたのです。回り回って、目の前に現れたのです。そして、深い理解とともに、納得し、満たされる感覚を得ました。

この例は、非常に明確な気づきかもしれませんが、大なり小なり我々は常に感じていることだと思います。

テクニークのレッスンの中でも、「あれ?いつもと違うんだけど・・・???どうして?」と言いながら、「あっ、そうだったのね!」と納得してしまう瞬間があります。自分の感覚の中で、妙に納得してしまうのです。頭でっかちにあれこれと考えて理解するのとは異なった次元で、身体に、感覚に、じわっと染み込んでくるのです。こういった気づきは非常に深く、その後揺らぐことはありません。「レッスンが面白い!」と感じられるのは、このような瞬間があるからだろうと思います。

様々なことを学び理解しようと模索し続けることが「生きる」ことです。しかし、がむしゃらにもがくだけでは得られないことも多いものです。深い理解が訪れる、その貴重な瞬間を逃さないように、力を抜いて前進していくことも重要なのだと感じています。

「腑におちる」瞬間に出合うのを楽しみにしつつ、
日々淡々と精進していくことが重要なのかもしれませんね(笑)。

 

毎日毎日の生活は、ある意味パターンの「繰り返し」です。

・朝起きてまずすることは、トイレに行くこと・・
・毎日の通勤では、同じ時間の同じ電車に乗る・・・
・毎朝、コーヒーを飲まないと目が覚めない・・
・夕食時の晩酌には、必ず日本酒が必要・・
・寝る前にはストレッチを必ずする・・
・新聞はソファーで寝ころびながら読む・・・
・椅子に座るときは必ず右脚を上にして組む・・
・就寝前に、スナック菓子を食べる・・・
・受話器を取るのは、必ず右手・・
・タバコは毎日20本ほど・・・
・人と話すときは、ついつい相手の足元を見る…

などなど  例を挙げればきりがありませんが…

長い年月をかけながら、それぞれの方々の独自の活動パターンが出来上がっていき、その繰り返しが、精神的、身体的安心感・安定感を生み出していきます。これらのパターンは状況に応じて変化しながら、その人の「人となり」を形成していきます。これは精神的パターン(思考パターン)も同じです。
*「習慣」や「癖」とも言い換えることができると思います。

我々が持つ「パターンを作る」という作業は、我々を発展させ高度な活動ができるようにしていく・・という良い側面がある一方、「パターンを変える」難しさも同時に存在します。実は、パターンを意図的に変えていくのは容易ではありません。基本的に、人間にとっては作り上げられたパターンを保持する方が楽なのです。何か大きな変化が起こるなどして大幅に考え方がひっくり返されたり、必要性を痛感するなどしない限り、強固に保持しようとします。例えば、上記の「脚の組み方」などは、腰痛など何らかの問題が明るみにならなければ、変えていくというアイデアさえも思い浮かべないでしょうし、健康診断で指摘されたり病気を患うことがなければ、深夜の飲食やタバコを止めることは容易なことではないでしょう。また、自分の悪い思考パターンを自覚していても、改めるのが難しいことは全ての人がよくわかっていることです。自覚していても、なかなか変えられない・・という状況です。

このように、「パターンを作ること」は正に人間の営みであると共に、それによって被る弊害もあることを忘れてはいけません。

そしてもっと厄介なのが、本人が全く気付いていないパターンの存在です。

意識上にないために、自覚症状がなく、知らず知らずに自分を苦しめてしまうことがあります。

先日、レッスン中に、「僕の肺はあまり動いていなかったんだ・・ということに初めて気づきました」とおっしゃる方がいました。彼にとっては、今までに肩や胸の周りの過剰な緊張は自覚していても、それが肺の動きに影響を及ぼしていたことには全く気付いていなかった、又は気にかけたこともなかった、ということです。

彼の場合、肺が動く!という実体験をしたことで意識上にそれが表れ、その状況を認識することができました。それがきっかけとなり、今までの、「肺を押さえつけ動きにくくしていたパターン」を変える可能性が生まれてきました。しかしこういった機会がなければ、彼の肺は今も動きづらく十分な活動ができない状態のままでしょう。

このようなことは無数にあり、完全に掌握することは不可能なことです。しかし「自分が気付いていないパターンも存在するのだ」ということは常に心のどこかに留めておく必要があると思うのです。

どういった機会に、どういった瞬間に、気づくことができるかは予測できません。
常にアンテナを張って、自己観察する余裕を持つことが大切でしょう。


我々は常時パターンを作りながら生きています。
しかしこのパターンに縛られるのではなく、「パターンを変える素地」を残しながら日々生きていきたいものです。

人間は常に変化しながら、学習しながら、生きているのですから…!!!

 

4月から「姿勢と動きの改善教室」と銘打って講座を開始しました。


「姿勢」と「動き」と聞くと・・・
きっと殆どの方にとっては、別々のことを述べているように感じられるのではと思います。「良い姿勢」とは、カチッと身体を硬直させ呼吸を止めるようなもので、骨盤を立たせる椅子や矯正下着などで癖をつければ獲得できるもの・・・と考えていませんか?また「良い動き」とは、柔軟性や筋力を伴って活発に動けること・・などとお考えではありませんか?

 姿勢は決して“固定化”されたものではなく、また動きも“移動”を意味するだけのものではありません。姿勢も動きもすべて我々の活動の一部であり、全く同じものです。我々の活動に境界線はなく、常に流れていく“生きてゆく”営みの一局面を切り取って、「姿勢」「動き」などと表現しているだけなのです。

 しかし・・・・・
「良い姿勢をしてみましょう」と問いかけると、必ず、顎を引き、喉を固め、胸を張り、背中をそり、呼吸を止めた状態を作ろうとします(これはほぼ全ての人に当てはまりますね)。そして、あっという間に、大きく息を吐きだしながら崩れ落ち、がっくりとへたり込んでしまいます。継続させることができないのです。これまでに受けてきた教育の中で、“良い姿勢”の概念が作り上げられてきた結果でしょうが、どうしてこれが良い姿勢といえるのでしょうか??

 真の意味での良い姿勢とは、どこにも無理がなく、かつ、我々が持つ機能がしっかりと継続的に効率よく働くような状態のことです。短時間しか維持できないものが、「良い」ものであるわけがありません。

そして、この本当の意味での良い姿勢が獲得された時にこそ、「良い動き」も同時に生まれてくるのです。

姿勢は動きであり、動きは姿勢でもあるのです。

 アレクサンダー・テクニークの中には、正にこの考えを構築すべくアイデア・方法論が沢山含まれています。また、Posture Poise  Activity  Movement などの言葉がテクニークの関連書籍などにも頻繁に出てきますが、決して上記のような固定的な継続できない形を意味していません。Coordination があってこその、姿勢であり、動きなのです。

 当然のごとく思い描いてしまう言葉のイメージが、我々の行動を制限化してしまっていることを自覚しつつ、その凝り固まった考えを取り払い、姿勢と動きについて改めて捉え直して欲しいと願っています。

 また、講座の表題を「アレクサンダー・テクニーク」としなかったのには、実は私の深い想いがあります。

アレクサンダー・テクニークの教師として活動し始めて、12年目。
上記のような「姿勢と動きの改善教室」などという表記はできないと!!と頑なに長年拒んでおりました(笑)。テクニークの内容は、様々な局面があり、簡単に「これに効果がある!」とは言い切れないのです。それだけ深い内容であるという事なのですが、その反面、説明も難しく、一般の方にとっては非常に分かりにくいという難点があります。

しかし、ある日ふと考え付いたのです。
「私はアレクサンダー・テクニークの教師として、テクニークを多くの方に役立ててもらいたいと願って指導しているが、その殆どの方々にとっては、方法論の名称よりも、自分の抱えている問題の糸口が見つかることの方が先決なのかもしれない。“確信を得ることができる確固とした内容を提示すること”の方が重要なのでは?」と。その基盤となる考えが、ここ(アレクサンダー・テクニーク)にあるんですよ・・と、方法論の名称は後になってもよいのでは?と思ったのです。

 今回は“親子講座”です。(今後対象を広げていければと考えています!)

4月に参加された方の中には、「こんな講座を探してたんです!なかなか無いですよね」と話される方もいらっしゃいました。親子で改めて「姿勢と動き」について捉え直すことで、毎日の生活の中で生かしていくことが目的です。お子様のため、親御さんのため、家族みんなで快適な心身を獲得して欲しいと願っています。

次回は来月7月です。ご興味のある方はどうぞご参加ください!!
 

 

様々な情報を如何に早く受け取り、的確に処理するのが現代社会を生きる我々にとって欠かせないことですね。テレビ、新聞、パソコン、携帯、スマホ、SNSなどなど・・情報の発信ツールは増える一方。どんどん手軽に情報を得ることができるようになってきました。私自身も、スマホでニュースをチェックするようになって以前よりも早く新しいニュースを知るようになりました。

 ただ、スマホやパソコンなどから入ってくる情報にかき回され、忙しくなり過ぎているようにも感じます。現に、一日の殆どの時間、スマホなどの画面を見つめているひとも多いのでは?と、思います。

「情報」

実は、これは自分の外からやってくるものばかりを指すのではありません。

つまり、「自分の中に生まれる情報」もあるのです。

 我々は基本的に五感(触覚、嗅覚、視覚、味覚、聴覚)を使って情報を外から得ますが、それだけでなく、自分の中に生まれる情報(筋感覚、固有覚、前庭覚など。今、自分の身体はどうなっているか。バランスはどうであるかetc.)もフィードバックさせ、組み合わせながら生きています。つまり、入ってくる情報と生み出される情報を組み合わせ、処理し、また新しい情報を自分の中で生み出し・・・と絶え間なく情報の合成、処理、再生などを行っているのです

しかし、この「自分の中で生まれてくる情報」に対して、あまりにも鈍感な方が増えているように感じます。

 本来、このような情報の合成、処理、再生などを、胎児のころから繰り返し、様々な感覚を育てながら我々は成長しています。乳児の場合では、小さな手で握ることが手のひらを開く感覚を養い、足をばたつかせたりゴロゴロすることで体幹や腕脚の使い方を学習し、それが寝返りに発展し、四つん這いの動き、立つこと、歩くことへと発展していきます。様々な体験を通して、脳が育ち、「自分の中に生まれる情報」を的確にキャッチし次の体験へとつなげていくのです。

 最近「発達障害」という言葉を頻繁に耳にすることが多くなりました。
その原因の一つとして言われているのは、上記のような情報を「上手く統合して用いることができない」ということです。このほんどは早めに対応することで、改善は十分可能であると言われています。それぞれの方の状態をきちんと把握し、不十分な部分の感覚を少しずつ丁寧に養うよう環境を整え、「混乱している情報を的確に適切に処理できるようにしていくこと」です。

 実は3年ほど前、発達障害だという小学生の男の子にレッスンをしたことがあります。「変な動きをする!」と、お友達にからかわれるのがかわいそうで、何とかならないか・・というのが、レッスンを希望された理由でした。レッスン後、お母さんから聞いた話では「何だかとっても気持ちよかった。また連れてって!(レッスンを受けたい)」と彼は話していたそうです。きっと彼の中では、上手く情報を処理することができず、過剰な感覚・動きとして表れてることに気づいてはいるけど、彼自身ではどうしようもなかったのです。しかしレッスンを通して、過剰な反応が静まり、情報を上手く処理することができるようになったことで、スムーズに動くことができたのでしょう。一緒にキャッチボールをしたこともありましたが、非常に綺麗な問題のない動きでした。

しかしこれは、「発達障害」と診断された方々にだけ当てはまることではないように感じます。

何も問題なく日常を過ごされている方々も、「自分の中に生まれてくる情報」にもっと目を向けるべきだと思うのです。

殆どの方は、何かしら大きな問題が明るみに出てから、やっと自分自身に意識を向け始めます。(病気を発症するとか、怪我をするとか、死を実感する場面に出合ったとか・・)
「今、生きている自分」
「今、どんな風に歩いているのか」
「今、どんな風に感じているのか」
「今日の体調は?」など。
外から得られる情報よりも重要なものが、これらには多く含まれています。

「自分の外から得られる情報」だけでは我々は生きていけません。

「自分の中から生まれてくる情報」の重要性に目を向けて欲しいと願っています。

よりリアルな自分で生きるために!!

 

 「自然治癒力」と聞けば、ほぼ全ての方が意味をご存知ですよね。

怪我をしたり、何らかの病気になった場合、それに適した様々な治療が施されますが、最終的には自分自身(体内)で正常な状態に戻そうとする力に頼りながら我々は生存しています(切り傷が徐々に元通りになるように)。これは自分の意志ではコントロールできない部分が大半を占めており、我々にとって実感しにくいものです。しかし、この「正常な状態に戻ろう」とする力が上手く働くように、意識的に誘導できる範囲もあるのです。

その一つがアレクサンダー・テクニークのアプローチだといえるのではないかと思っています。つまり、「首、頭、背中の関係性について意識的に考え、同時に習慣的反応(無駄な緊張・反応のこと。マイナスの作用を起こす反応のこと。)を抑制しつつ、全体的な自分の使い方を常に視野に入れながら活動すること」です。これが、「人間としての本来の能力を発揮できる、正常な状態に戻ろうとする能力」が生かされる土壌を作ることになるのです。

もっと具体的に例を述べると・・・・

「猫背を直したいと思っている人」の場合。

大抵の場合は、肩を背中側に寄せ、猫背とは反対側へストレッチしたりしますが、これは一時的刺激で終わってしまい、長い目で見れば効果的ではありません。猫背になる使い方が身体に(筋感覚に)しみついていることを認識し、上記のようなアプローチを少しずつ継続的に行うことで、この無駄な習慣(胸が落ち込み、肩が内側に入り、肩甲骨は外側に開いて硬直し・・・など)を手放すことができるようになります。つまり、「正常な状態に戻ろう」とする自分の能力を邪魔している、習慣的な使い方を止めていく作業をするということです。

レッスン当初は非常に戸惑いが大きいものですが、
「何が無駄であるのか」
「自分の体はどうなっているのか」
「どのように考えていけば良いのか」など知的理解も深めながら進めていきます。それによって、習慣的な使い方から本来あるべき状態に身体は反応し始めます。徐々にですが、内側に落ち込んだ胸が開き、肩は肋骨の上にゆったりと乗り、背中がのびやかに使えるようになります。猫背は必然的に改善していきます。その他様々な相乗効果が促され、身体機能が良い方へ活動し出すのです。

これが、意識的に誘導するということなのです。

これまでに生徒さんからも「テクニークのレッスンは自然治癒力を高めると思う」という感想を頂いています。正に自分自身との関わり方が変われば、もっと快適な状況へ導くことができる可能性を全ての人が持っているといえるのではないでしょうか。
 

 話は少し変わりますが、IPS細胞が発見されてからその研究のスピードは凄まじく、医療分野で実用化される日も近いようですが、ここでも実は「自然治癒力」が働くようにサポートする視点で進められているようです。これまでは、疾患の元となるものに直接働きかけることが「治療」だという概念で様々な研究がなされていたようですが、今は、身体が本来持っている力を生かす方向で最先端技術も進化しているそうです。

「自然治癒力を引き出す」

最先端医療でも、日常生活においても、我々にとって重要な視点だといえます。

意識的に自分に働きかけながら 自分の能力を高めていきたいものです!

 

 高齢者の運動能力が向上したことや、小学生の運動能力が向上傾向にあるなど、明るい話題を最近耳にしますね。「昔に比べ・・○○が低下した・・」というニュースに慣れてしまっている我々にとっては非常に喜ばしいことです。しかし、私は一抹の不安を覚えるのです。

それは、あまりにも「筋力アップ」に偏りすぎているのでは?と感じるからです。

「○○のためには○○筋を鍛えましょう」

決して間違ったアドバイスではありません。しかし、我々は常に全身を使いながら活動しているにもかかわらず、それに関する指示は何もないことがほとんどです。全体的な使い方(自身の根本的な使い方)に関して何も知識がなく、非常に偏った習慣(長年築き上げてきたもの)を保持したまま一生懸命筋力アップに励んだ人々は、一時的に爽快感や筋力アップの恩恵を感じたとしても、最終的には故障を呼び寄せ、運動能力向上はおろか日常生活にも支障をきたすようになるでしょう。そのようなケースが増えるのでは?と、非常に危惧しています。

 我々の身体は(もちろん、心もですが)使わなければ機能しなくなります。関節も動かさなければ固まります。筋肉も負荷をかけなければ痩せて弱くなります。これは高齢者だろうと、子供だろうと同じです。活動しない=機能停止に向かう ということです。しかし適切な動かし方で、適切な筋力をつけなければ、本当に意味での「運動能力向上」にはなりません。余計なものを付け加え、逆に健康を害することになるからです。

 少し話がそれますが「健康寿命」という言葉、ご存知の方も多いのではと思います。これは、厚生労働省が推進する「国民健康づくり運動」の核となる「健康寿命の延伸」を目的とした政策によって、最近よく耳にするようになってきた言葉です。つまり、介護が必要となるまでの健康に生活できる期間を長くすることです。そのために、運動器の障害(ロコモティブシンドローム)を防ぎ、医療費、介護費の増大をおさえるために、国を挙げて推奨しているのです。

 勿論、これは高齢者に限った話ではなく、子供から大人まで、すべての年代にとってもとても重要です。我々みんなが健康に生活できるために、運動の機会を増やし、体力を維持さていくことは必須です。

しかし、 筋力をつけること に偏っていないでしょうか??

 私の場合、小さな頃から運動に親しみ、運動に関する専門知識を学び、指導者として活動していましたが、自身の使い方が間違った感覚認識の下でなされていたために、不適切な筋力をつけ、不適切な動きを繰り返し、その結果「不健康」に陥っていました。(当時の私は「自分のやり方は正しい!」と信じていましたが・・)

筋トレ=必ず健康 とは ならないのです。

但し、自分の心身について深く理解し、部分的でなく全身的な活動を自分で適切に導くことができるようになれば、この試みは健康への近道となるでしょう。

アレクサンダー・テクニークは、この適切な活動を導く基礎を提供します。どうぞこの考えを取り入れ、日々の活動に生かしてください。私のような失敗例が増えないことを願いつつ・・

そして、筋力アップだけに偏らない適切な指導ができる指導者が増えることを心から願っています!!!



先日、腰痛に関する最新治療の動向に関するNHKの特集番組を見ました。とても興味深い内容で、またテクニークの指導と重なる部分が非常に多くありましたので、ここでお話しさせてください。

 まずは放送の内容を簡単に・・。「慢性的腰痛」は脳が深く関係しているとのこと。本来、痛みが起こるというのは、問題が起こった患部から脳に情報が送られ、脳内の痛みの回路が興奮して「痛い」と感じる。この痛みの回路は通常患部の炎症などが治まるに従って、興奮を鎮静させていくのだが、痛みに対する恐怖感がこれを狂わせ、興奮状態が続いてしまうらしい。それによって、患部には既に問題がないにもかかわらず、痛みのみが残ってしまうということである。

 それに対する治療として紹介されていたのが、認知行動療法、運動療法である。簡単に述べるとすると、「痛くないと認識する」ということである。それによって脳の痛みの回路は興奮を鎮静化させ、本来の正常な脳活動が行われるようになり、腰痛がなくなるということである。

 テクニークのレッスンは、まさに認知行動療法であり、運動療法でもあると、私は常に考えています。自分に、今、何が起こっているのかを認識し、どう使って(動いて)いけばよいのかを考えながら行動に移すということです。

 腰痛の問題を抱えた方にとっては、自分にどのような使い方の癖があるのかなぜ腰痛を起こしてしまったのか腰痛を起こさないようにするにはどうすればよいのか、また、痛みに過剰に反応していないか、など・・・精神的・身体的、両方を含めて、様々な局面からアプローチしていきます。これは、興奮している脳の混乱を解き、整理し、沈静化させていくことでもあると考えます。「自分の状況を把握し、どう使っていけば同じことを繰り返さない」と理解することが、安心感を育て、痛みに対する恐怖心を軽減していくことになります。加えて、全身的で機能的な動き方を学ぶことで、再発を防止することが可能となってきます。そして最大の利点は、「自分全体を上手く使う(精神的・身体的)」ことが、腰痛の克服だけでなく、あらゆる問題解決の道しるべになるということを理解するということです。

 腰痛に関しては、長年様々な研究がされてきて、様々な報道、書物などを目にすることも頻繁にあります。しかし、「本人が腰痛を生み出している」という観点はありませんでした。今回、「脳」を分析することで痛みのメカニズムが明らかになり、「本人自身」に焦点が当たってきたと言えるのでは?と思います。アレクサンダー・テクニークの指導者として日々行っていることが、こういう形で明らかになっていくことに、私自身も非常に嬉しく、興味深い内容でした。

 しかし、残念なことに、この特集番組の中では「再発防止」という観点はありませんでした。現時点での腰痛を上記の方法論で改善したとしても、腰痛を起こすような動き・行動・反応を繰り返せば、再び同じ辛い状態に必ず陥ります。

 「腰痛は怖くない!」と脳に認識させるだけでなく、

 「腰痛にならないには・・!」と脳に認識させる方が長期的には良いはずです。

将来を見据えた腰痛予防教育が必要なのではないでしょうか?

アレクサンダー・テクニークの多大な恩恵を改めて噛み締めています。

 

 日々、様々な疑問が浮かび上がってきます。

人間またはその活動というのは複雑で、まだまだ分からないことばかりです。

私自身も「どうしてこうなるのか?」「この場合はどのように捉えるべきか?」とアレクサンダー・テクニークの知識から飛び越えて、様々な分野から得られる情報を参考にしながら自分の中に生まれる疑問に向き合っています。

 その中で、私の立場として最も重要なことは、「アレクサンダー・テクニークだからこそ提供できることを如何に的確に表現できるか」だと思っています。「実践の場面で自分をどう生かしながら活動していくのか」、つまり受動的活動ではなく、能動的な活動をするための学習を提供していくことです。

 テクニークのレッスンを求められる方々の中には、何かしら重要な問題を抱えており、医療機関などと並行してテクニークのレッスンを行う方が効果的な方もいらっしゃいます。詳細な診断(例:投薬、CTやレントゲンなどによる分析など)はその専門家にお任せすること。その上でテクニークのレッスンの主軸である「能動的活動」を並行して学習していくことで、効果的にアプローチできると考えます。他の分野には無い「アレクサンダー・テクニークの観点」が、あらゆる局面で役立つことは間違いありません。

いかなる場合においても、

専門性を高めること + 固定概念に固執せず連携すること

が大切だと、日々実感しています。

 将来的には、様々な分野がそれぞれの長所を生かしつつ、かつ互いに連携を取りながら、人々の問題に向き合うことができるようになること。医療機関や、各種学校などでもアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けられる。

・・・近い将来、そんな時代が来ることを心から願っています!


「最近太り過ぎちゃってね~」
「体重を落とさないといけないんだけど・・」

  なんて、会話を良く耳にしますよね。
で、どのくらい減らしたいの?という話になると、 「健康診断で○○㎏~○○㎏の範囲に収めましょうと言われた・・・」とか、 「とにかく10㎏減量が目標!」とか・・・・・

 目的が具体的になっているようですが、私には疑問が浮かびます。

 私はこんな風にお聞きします。
「ご自分にとってのベスト体重は何キロぐらいなんですか??」

 私が意味する「ベスト体重」とは、「自分にとって動きやすく(活発に活動できる)、かつ体力が落ちることもない快適な重さ」の事です。言い換えると、「自分が最もはつらつとした毎日を送れる状態の重さ」です。
つまり、基準は「自分の感覚」です。

 適正体重、標準体重など、医学的見地から割り出した体重の概念があります。計算式を使って自分の体重と身長から割り出していくのですが、これは、あくまで目安です。全ての人がそれぞれの全く異なった体質や体格を持っていますし、もっと広げて考えれば、職種、生活状況、年齢、性別などによって条件は全く異なってきます。 「疾病率が下がる」という客観的な判断としての体重管理には良いのでしょうが、個々人の「実感」は全く考えに含まれていません。

毎日、毎日、体重を含めた自分の身体と付き合っているのは「自分」です。

「身体が重いな~」
「膝が痛い・・」
「腹周りが大きくなって動きにくくなってきた」
又は反対に
「体力やスタミナがなくなってきた」
「風邪をひきやすい」
「めまいがする」       など

体重の増減によって感じることは多々あります。
その中で、自分にとって最も健やかで活動しやすいベスト体重というのがあるのです。それを自覚さえしていれば、「体重の自己管理」はもっとしやすくなると考えます。

以前、太り過ぎが原因で、自分のパフォーマンス(芝居)が上手くいかないと思いこんでいる20歳ごろの女性にレッスンしていた時、こんなことを話したことがあります。

「自分が一番快適で、表現体(役者)としても納得できる自分を考えながら、体重と向き合わないとだめよ。○○㎏減・・じゃない。減りすぎてもだめなラインがある。あなたにとって一番ベストな場所(体重)を知ってる?」と話しました。
彼女はとにかく痩せれば全てが上手くいくと思っているようでした。でも、これは大きな間違いです。自分と向き合うことをしなければ、何も変わらないのです。(リバウンドで元に戻ってしまうのがみえています)

過食症、拒食症など、食に対する感覚が麻痺して過度に偏ってしまう場合は、また別の問題が生じますので、心療内科などでのケアが必要となります。しかし、そうでなければ、「自分にとってのベスト体重」を自分で見つけ出すことはそれほど難しくないことだと思います。

「自分を捉え、自分で導き、自分でコントロールする」

これも正にアレクサンダー・テクニークの概念です!

 

 レッスン中、ふいに涙があふれ、泣き出す方々がいらっしゃいます。
 指導する側も、指導される側も予測のできない瞬間です。

 私も指導中に幾度かその瞬間に出会ってきました。

 様々な説明ができると思いますが・・・「感情の扉が開いた」と言えるのではないでしょうか・・・

 我々は様々な感情を奥に秘めて生きています。心地よい感情もあれば、記憶の奥に押し込めたい苦い感情もあります。特に後者の負の感情(苦痛・葛藤・怒り・悲しみ・・など・・)は、強固な扉によって隠し閉じ込めているのです。 その扉とは「緊張」です。それは筋肉による硬直を示します。筋肉を必要以上に硬くすることで、外界から自分を守り、負の感情を押し込めているのです。 その習慣化が、様々な慢性的な疾患や「自分自身の使いにくさ」を引き起こしています。    *ウィルヘルム・ライヒはこれを「筋肉の鎧」と表現しています。

 しかし、レッスンを進めていくに従って、多くのことを学び、筋肉の硬直がほどけてくる(=バランス良く使えるようになる)ことで、 閉じ込めていた本当の自分とコンタクトをとりはじめるのでしょう。

 テクニークの指導者としても、「感情の開放」を主な目的にレッスンを行っているのではありません。 まして、精神科の医師のような診断をすることはできません(してはいけません)。

生徒さんも、特別に「泣く」必要はありません。
しかし、涙があふれ出ることを否定する必要もありません。
「本当の自分」に出会えればいいのです。

 涙があふれ出た生徒さんを前に、私にできることは、ただ、その空間に同居するだけです。 そして、ご本人が話したい内容に耳を少し傾けるだけです。

 私自身も、どんどん自分の心身が変化してきて、戸惑いを覚えたことがあります。 鎧がほどけてくることで、恐怖感を感じたのです。その恐怖感を受け入れる長い時間が必要でした。 少しずつ、ゆっくりと、「本当の自分」と向き合っていったのでしょう。

人それぞれのやり方、タイミングで良いのです。

心身共に自由に!!!!

テクニークは本当に深い・・・・

「泣く」ことの意味を改めて考えています・・・・・

 

 先日8月下旬、久しぶりにオランダに出向きました。
指導者向けのワークショップに参加するのが第一の目的でしたが、新しい刺激を受けたい、 自分のスキルを確認したい、初心に戻りたいという様々な感情を抱えてのオランダ訪問でした。 しかし懐かしい風景、懐かしい恩師や仲間達との再会に沸き立つ時間もつかの間、 互いの築き上げてきた技術・鍛錬の度合いをチェックすることに集中していました。
相手の技術を全身で受け止め、また、自分の技術を客観的に見つめる・・・。
また、テクニークを指導者としてどのように深めていったのか??などなど。
壮絶な時間・・・とは、このことかもしれない・・と感じました。

 テクニークは、F.M.アレクサンダーが確立した指導法であり、実に100年以上に渡ってその方法論が引き継がれ、 世界各国で教えられているもので、非常に歴史が長いものです。
 実は、現在良く耳にする方法論の中には、アレクサンダーテクニークの考えから発展させて作り上げられたものが多く、 テクニークが礎となっているのです。
(例:フェルデンクライスメソッド、ボディマッピング、アイボディ、ミツヴァテクニック など) これは、アレクサンダーの発見したことが、人間の根幹にあたる、非常に深い部分に触れているということなのでしょう。
そして、テクニーク自体がまだまだ発展途上であった・・・ということなのではないかと思います。

 私が今回の旅で特に感じたことは、自分の中のテクニークも発展してきているということです。 「指導=学習」とは良く言いますが、指導を重ねることが、新しい発見を生み出し、新しい指導方法を日々考え出しています。 皆さんの問題に貢献できるように試行錯誤をくりかえしながら、私ならではの前進をしているのです。 そして、指導の局面だけでなく、自分自身にとってのアレクサンダーテクニークも、もっと深く、興味深いものになってきています。

 指導者のアイデアや世の中のニーズなどにより、今後も様々な方法論が生まれてくるでしょう。 しかし、変化ばかりを追い求めると、失うものも大きいものです。根幹を常に見つめなおすことを忘れず、F.M.アレクサンダーが何を感じ、 思考していったのかに想いを巡らし、敬意を表しながら、私の歩みを続けていきたいと、今回の訪問を終え改めて感じています。

私が13年前に初めてテクニークのレッスンを受けた教師 
Helga Langen (Amsterdam Theater Shcoolのモダンダンス教師であり、アレクサンダーテクニーク教師、現在65歳)の プライベイトレッスンを今回改めて受けてきました。非常に素晴らしい質の高いレッスンでした。

初心忘るべからず!(感動を忘れない!)

さぁ、また前を向いて前進です!!

 

「負荷」というとトレーニングなどの際にかける特別なものだと考えがちですが、実は、我々の身体には常に!負荷がかかっています。

 重力は当然の事ですが、それだけでなく、活動すればするほど動きの中から生まれる負荷が全身にかかってきます。 単に歩く場合でも、自分自身の重さを運びながら空間を移動し、 また運動(ジャンプなど、更に複雑な高度な動き)をすれば、直立している時の数倍の重さがかかり、 日常では、重い荷物を持ち上げたり、子供を抱きかかえたりする際も、自分の重さ以上の負荷を抱え込みながら活動しています。

  これらの負荷が我々の筋肉量を維持し、活動するためのパワーとなっているのですが、一方で上手く自分自身を使えていない場合は、 身体のどこかに負荷(重さ)が偏り、必ずいつか、どこかに「痛み」などとして表に現れてきます。

 テクニークのレッスンの中で、「負荷の分散」という言葉を私は頻繁に使います。 テクニークの学習は「自分全体(心含む)を上手く効率よく機能させていくこと」を学ぶことです。 その中で「自分にかかってくる負荷を上手く分散させること」を学ぶことでもあるのです。

 重いものを持ち上げる時は尚の事ですが、座ったり、立ったりなどの単純な活動でさえも、「自分全体を効率よく上手く使う」事が 「それぞれの関節にかかる負荷を分散させ、全体として上手くコントロールすること」に繋がってくるのです。 それによって、膝や腰などなどに偏っている負担が軽減します。

 テクニークのレッスンはこれらの痛みをとることを主な目的としていませんが、 「痛みがましになる・・」と答えられる方々が多いのは、その為です。

  我々は地球上で活動し、重力がなければ直立することすらできません (宇宙空間で生活する宇宙飛行士の状況を思い浮かべるとよくわかりますよね)。 負荷がなければ筋力も低下し、人間というものの形さえも違うものになってしまうかもしれません。 よって、「負荷を減らす・・」と考えるのでははなく、「負荷を上手く処理する」ことを考え、 日々活動していくことが必要なのではと思います。

 関節の可動域、バランス、重心、筋力などなど・・・・「痛み」を軽減するために考えられた様々な方法論に多くのヒントがありますが、 残念なことに、部分的な観点で捉えているものがほとんどのように感じます。 「部分的な能力アップ」で全てが解決するというのは、あまりにも疑い深いものです。
しかし、弱った部分を強化する際に、負荷を分散させながら自分全体を視野に入れてトレーニングを行うことができれば、 非常に質の高い全体を使う際に有効な筋力がつくことになります。 それをせず部分的な能力アップを狙えば、逆に故障を引き起こすことになるでしょう。
(筋力強化に精を出したにもかかわらず、逆に上手く使いこなせなくなってしまうアスリートなどは、その典型的な例です)

「自分自身全体がどう機能し、どう活動していくのか?」をベースの考えとして、「負荷」について考えてみては如何でしょうか?

 腰が痛い方、膝が痛い方、どこかが上手くいかない方・・・・
 ご自分を上手く使えていますか?
自分にかかる負荷(重さ)を上手くコントロールできていますか?

 

as a whole 全体として、ひとまとまりとして・・

テクニークを本格的に学んだ人にとっては、すぐにピンとくることばですが、一般的には漠然として抽象的なことばでもあります。

もっと具体的に述べると、テクニークの中では、「人間をひとまとまりとして扱う」という意味です。

普段我々は、どうしても、心は心の問題、身体は身体の問題と分けて捉えがちです。 現に、我々が問題を抱えた場合にも、心の問題は精神科や心療内科、身体の問題はその部位ごと、又は症状ごとに受診すべき科を選択します。 しかし、本来、心も身体も分けて扱うことなどできず、ひとまとまりの存在として機能し、日々活動しています。

つまり、「心身まるごとの自分」なのです。
テクニークの中ではこの考えがベースとなっています。

 実は、先日、私の大学院時代の恩師の最終講義に参加しました。 久しぶりにお会いした恩師のお話に、私が追いもとめていたものを改めて確認することができる、貴重な時間となりました。 私は、今はアレクサンダー・テクニークの教師という肩書が主な看板となっていますが、以前は「舞踊教育」を専門とする指導者でした。(今も舞踊教育専門の指導者をやめたつもりはありませんが…)

 人が「踊る」ということは、非常に深い意味が生じます。原始の時代から踊ることは人間活動のコミュニケーションの一つでしたし、 現在も様々に変化しつつも踊りは我々の文化から切り離すことができないものです。 その中で、踊ることの根本的な意味を捉えた時、「心身まるごとの自分を投じた活動」であるのです(恩師のお言葉をお借りすると)。 感性を研ぎ澄まし、他者との共感を実感しながら、社会とのつながりを得て、自己実現(自分という存在価値を認識する)へ向かう・・。 このプロセスには非常に深い教育的意義があります。それを学び、研究し、またその指導者として実践の中で追いもとめていました。

 今回、恩師のお話から改めて実感したことは、以前私が追いもとめていたものと、 現在の私がアレクサンダー・テクニークに追いもとめていること、それは全く同じだったということです。 もちろん、形式や表現方法は違います。加えて指導法も違います。 しかし、「人間を一つとして捉え、生き生きと活動するための方法論」という点では何も違いは無いのです。

まさに as a whole 心身まるごとの自分 を目指しているのです。

 テクニークでの具体的な例をあげるとすると・・・・
「膝が痛い方」の場合、全体として上手く自分を使えるようになることで、痛みを軽減することが可能となってきます。 これは、上手に動く(身体的に)だけでなく、精神的な使い方を含めて上手になるということです。 そして、今までの信頼できない自分の使い方から脱し、自分自身との対話(筋感覚も信頼できるようになり、 またコンディションが良いとか悪いとかも含めて)がスムーズになることで、外界との関係性も改善し、 安定した日々の活動を送ることができるようになるのです。

また、ダンサーや俳優、音楽家、アスリートなどのパフォーマーにとっても、各々の技術を確実に明確に表現するためには、「心身まるごとの自分」が上手く機能することが重要です。

テクニークは単なる動きの学習ではありません。
深く、時間のかかるものです。
でも、あらゆる方々の課題に貢献できるものです。
そして、多くの方々に as a whole を体験して頂きたいと願っています。

恩師の素晴らしい講義の中で、自分の追いもとめているものを改めて実感した私でした。

 

 先日、小学生約50人のピアノ演奏を聞く機会がありました。
皆、舞台に上がるためおめかしし、人前に出るため緊張している姿は、何とも愛らしく、「頑張れ!」と思わず声をかけたくなります。 そして、一生懸命にピアノを弾く姿は、何度見ても飽きることはありませんでした。

 しかし、折角素晴らしい演奏をしていても、「この子は数年後、この様な癖を身につけて、苦しむだろうなぁ・・・」 と想像して、悲しくなってしまうのです。(これは私の「職業病」ですね!!!)  この中でピアノ奏者を職業として極めていく人はわずかでしょうし、ほとんどが趣味の範囲でピアノと関わることになるでしょう。 しかし、折角出会ったピアノの世界。自分の思うように、感じるように、ピアノを演奏できたら・・どれだけ幸福なことでしょう。

 残念ながら、その日目にした子供たちのほとんどが、 「きっと、将来、指の動きが悪くなるだろう・・肩が痛くなるだろう・・・」と思えるような状態でした。 舞台袖からピアノの間を歩く時も、何とも酷い歩き方をしている子がほとんどでした。 背中を丸め、顎を突き出し、下ばかりを見ながら・・・。 加えて、お辞儀(舞台中央で挨拶をすること)の時も、焦点が定まらず、立ち方も、頭を下げるのも、あまりにも酷い。 緊張が子供たちをこのような状態にさせたのかもしれませんが、先生方はなぜ、その指導をしないのでしょうか?

 ピアノの技術を伝えることがピアノ教師の仕事です。
しかし、あまりにも「演奏技術」だけに集中していて、子供の普段の仕草、癖、習慣に何も指導がなされていないのが良くわかります。 その何気ない子供の習慣が、演奏の妨げになる・・という認識がないのです。 技術を磨けば磨くほど(レベルが上がれば上がるほど)、子供たちは必ず頭打ちをして、苦しむことになるのです。

 これはもちろん、親も同じです。 子供たちの可能性を信じ、期待しながらも、その事(例:「ピアノを弾くこと」)だけしか視野に入っていません。 子供の上達を喜びたいのなら、どうぞ、普段の仕草や習慣がどのように影響していくのかについて考え、心配りをしてあげて欲しいと思います。

 これまでにも何度か小学生のお子さまにレッスンする機会を頂きました。
いずれも、親御さんがお子さんの「これから・・」を心配なさって連れてこられています。 親御さんご自身が色々問題を抱え苦しんだ経験を持っていて、子供の可能性をつぶしたくない・・・とおっしゃる方もいらっしゃいました。

 アレクサンダーの研究を賞賛する声の中でも、「子供の体調不良を悪化させない、予防の観点を持った医師がもっと増えるべきだ。 悪くなってからの治療・・・ではなく、悪くならないような教育こそが大切だ」といった内容もあり、子供の教育の重要性が述べられています。

子供の可能性は無限大!!です。

しかし、その可能性を脅かすものがすぐそこ!身の回り!にあるのです。
脅かすものを排除するだけでなく、彼ら(彼女ら)が成長し、大人になった時、どうやって対応していくか?ということも含めて 教えていくのが、我々大人の、そして指導者の役目ではないのでしょうか?

私も指導者として、一人の子供の親として・・・深く考えさせられた一日でした。

 

今日、車のラジオから流れる話に心が奪われました。

彼は若いロックシンガーのようでしたが(残念ながらお名前を聞き逃してしまいました!)この様なことを話されていました。

「現代は、ツイッターやフェイスブック、ラインなどで常に!人と繋がっていて、それがないと不安になる傾向がある。 でも、その繋がりをあえて切ってみるのも大切かもしれない。 自分は何が好きで、何をしたいと考えているのか?自分はどんな人間なのか?など、自分と深く対話する時間も大切。 その中で自分の本当に好きなことが見えてきて、それを通じて真の意味での繋がりができる気がする」

車のハンドルを握りながら感動してしまいました。

 人間は人との関わりなくして生きていくことはできません。 しかし、一昔前の方法は、相手の顔を見て関わることが基本でした。 直接顔を見て、表情、態度、もちろん言葉などを駆使して他者との繋がりを作っていました。 その中で上手くいったり上手くいかなかったり・・・時には喧嘩をしたり、気まずくなったり・・・ 暫くの冷却期間があって・・また仲直りしたり・・。 常に!四六時中!は 繋がっていなかったのです。 適度な距離がありました。そして、「自分」を見つめる時間もありました。

 自分を見つめる時間があるからこそ、人も成長するのです。

 テクニークでも同じ様なことをお話しします。 色々な問題を抱えている方は、大抵、自分が何をしているのかが分からなくなっています。 その中で上手くコントロールできなくなり、必要以上に緊張したり、無駄な動きの中で痛みを発症したり・・。 色々な問題が明るみに出て、何とかしたいと思っていても、どうして良いのか分からずにいます。

 レッスンの中では、「自分を見つめ直す作業をしましょう」と先ずお話します。 そして、レッスンが進むにつれて、「刺激(人との関わりも含めて)に対してどう反応しているのか? 自分を生かす為にはどう反応すればいいのか?ということも考えていきましょうね」とお話しします。 人前で必要以上に緊張してしまう方にとっては正にそうですし、単に肩こりを解消したいという目的の方にとっても、同じことなのです。

 現代の人間活動は、どんどん複雑になってきました。
 そして、人との繋がり方も変化してきました。
 でも、繋がることだけに価値を置けば、自分が見えなくなってしまいます。

  自分を上手く生かすためには、「適度な距離感」が重要なんですよね。

ロックシンガーの彼!
素敵な話を 有難う!
素晴らしい若者に 万歳!!!

 

 最近、和式のトイレに出会うことが少なくなりましたね。

 自宅のトイレに和式を使っている方は、もう皆無に等しいのではないでしょうか? 外出先の公共トイレで和式のトイレに出会うぐらいで、本当に見かけなくなりました。 和式を使えないご高齢の方々も多いようで、公共トイレで並んで待っていると、 「お先にどうぞ。私は洋式じゃないとできないので・・・」と声をかけられることが多くなりました。 特に最近は、それほどお年を召していないような方までも、和式は使えない・・とおっしゃるように感じます。

 また、子供たちも、生まれて初めて出会うのは洋式トイレ。 洋式トイレしか見たことがない子供は、和式で用をたすことができないようで、未知のトイレに恐怖感を抱くようです。 (幼稚園にわざわざトレーニング用の和式トイレを設置する場合もあるとか)

 日本文化の一つである和式トイレは、我々の認識の中から削除され、絶滅の危機に瀕しているのでは!! なんて・・・危機感を抱くのはわたしだけなのでしょうか?

 実は、これが我々の足腰の強さを育てる要因になっていたんですよね。
スクワット(しゃがむ)の姿勢というのは、股関節、膝、足首など特に下半身の関節の可動が重要になり、 立つ状態からしゃがむ状態まで全身のバランスを取りながらかなりの高低差を移動します。 そして特に、しゃがむ時、またしゃがんだ状態から立ち上がる時、全身のバランスとある程度の筋力も必要となります。

 その作業を当たり前のように毎日繰り返すことで、バランス感覚を養い、筋力を維持し・・・多大な貢献をしていたのです。 しかし、洋式トイレに生活が変化するにつれ、私たちのこの活動は激減しました。 そのせいか、最近やたらと「高齢者の筋トレの必要性」などという話をよく耳にします。
足が上がらなくなったり、こけやすくなったり・・これらを防ぐためなのですが、
これは、トイレが洋式になった事による誤算のひとつだろうと私は考えています。

 高低の差を移動する・・・これは非常に大変な活動です。

 実は、テクニークの指導者養成コースでは、このスクワットを非常によく練習します。 まさに進化の過程をさかのぼるごとく(類人猿にとってはスクワットが当たり前でした)、 自身の使い方を見つめながら繰り返し学習するのです。 私が共に学んだ仲間達(西洋人)はとにかくこのスクワットが苦手でした。 高い椅子に座って高机で食事をし、ベットで就寝(日本でもこのような生活スタイルになりつつありますが・・)。 もちろんトイレも洋式。小さいころからこの様な状態の中で育っているので、 日常の中でしゃがみ込む必要性がないのです(あるとすれば、床に落ちたもの取る時ぐらいかも?)。 で、アキレス腱も伸びる必要性もないので当然硬くなり、スクワットをしようとすると、後ろにコロンとこけてしまいます。
 仲間からは、「Michiyoはすごいね~。なんでそんなに美しくスクワットできるんだ!」とよくいわれました。 「日本は座の文化よ。ましてこれはおトイレの姿勢だから皆当たり前にできるのよ。」なんてよく話したものです。

しかし!!!
これが日本では苦手な人が増えている!!
自慢できなくなる日が近いかも・・・・ええええっ・・・・

冗談はさておき・・・・

みなさん!   外出時、なるべく和式を使いましょう。

楽な方をなるべく選びたい!
皆そうですが、外出時は和式を使うように心掛けてみましょう。 膝などに何かしら問題を抱えている方は別ですが、それがない場合は、是非!チャレンジしてみてください!! 筋力アップのために、バランスの再認識のために・・・・なんでも結構。 多大な恩恵がその中には含まれていますから・・・!

 

「面倒を見てくださいね~」と、レッスンの中で私はこの言葉を頻繁に使います。
しかし、「他人の面倒」ではなく、「自分の面倒」のことなのです。

 「面倒をみる」という言葉は、他者(子供、生徒、親などなど)のために労力をいとわず、世話をする・・・・ といった意味合いが強く、この言葉を使う場合、「自分」は意識の中に入っていません。 しかし、一番身近で、人生の中で長い付き合いをしなければならないのは正に!!自分自身!です。 他人の面倒をみる前に、自分自身と上手く付き合うことが不可欠なのです。

 アレクサンダー・テクニークに興味を持たれ、実際にレッスンに足を運ばれる方々は、 「上手くいかない自分」に対して、疑問をいっぱい抱え、その解決策を探し求めてやってこられます。 例えば、「肩が痛くて・・色々なところに通っているんですが、どうしようもなく・・」など、 「面倒をみきれない自分」に困り果てている方々です。

これらの、それぞれの方の疑問に向き合いながら、
 じゃあ、どうすればいいのか?
 どのように自分を使えばいいのか?
 どのように自分と向き合い、日々付き合っていくのか?
などを学ぶのがテクニークのレッスンなのです。

 テクニークのレッスンの内容は、非常に深く、様々なことを含みます。 一見、“簡単な動きのレッスン”のように見えますが、解剖学的な内容が含まれることもありますし、 行動心理学的な内容も入ってきます。

あらゆる観点から自分を捉えながら・・・・
「上手く自分を使う」ことを学ぶのです。

 最終的には、先生にやってもらう・・のではなく、 自分で自分を上手く使う(面倒をみる)ことができるようになるために、レッスンを重ねていきます。

 一方、「面倒」という言葉には、「物事をするのが煩わしいこと」という意味も含まれます。 この煩わしい、手間のかかることを、どうぞ!前向きに捉え、労力をいとわず、自分のお世話をしてあげてください。

 快適な御自身になって欲しいと願いつつ、
 私自身も、日々指導法を探り、労力をいとわず、精進いたします!!!

 

 先日、日帰り温泉に家族で出かけました。
忙しい引っ越しの日々からすこし落ち着いて・・・の休養時間だったのですが、私にとっては改めて発見!の時間となりました。

 温泉・・多種多様な温泉に入るのが醍醐味なのでしょうが、温泉後のゆったりとした時間もいいですよね。 そこで登場するのが「マッサージ」です。 多くの方が硬く疲労が蓄積した筋肉をほぐそうと、専門の方の手にゆだねたり、 またマッサージチェアに座っての10分を楽しんでいらっしゃるように感じます。

 私も実はこれが楽しみの一つです。しかし、最近は苦痛でたまらないのです。 そう、昔はすごい肩こり、腰痛、などなどに悩まされていましたから、 何分マッサージチェアにすわっても、専門家の手にゆだねても物足りず、 「もっといいものはないかしら・・」となんて文句を言う始末でした。 しかし今は、とにかく居心地が悪いのです。

なぜか??

 それは、私の身体(筋肉、感覚)自体がマッサージの目的と反対の方向を向いているからなのです。 つまり、「硬直しない(こらない)」方向を向いているために、 「硬直している(こっている)に違いない身体をほぐす!!」という目的のマッサージとは全く相いれないのです。

 以前の私は「硬直する(こる)」→「誰か(何か)にほぐしてもらう」でした。
忙しかったり、ストレスがかかると、当たり前のようにこの公式通りに身体が反応し、 あとは、自分でどうしようもないので、他者(物)に助けを請うしかなかったのです。 しかし今は、この公式は全く当てはまらないのです。

正に、神経回路の変革です。

 テクニークのレッスンを受けた後、すっきりしたり、身体が軽くなったり・・という経験をした方は多いと思いますが、 これは単に先生が治してくれたというのではなく、今までの神経回路に変革を誘導しているのだということなのです。

 つまり「習慣的な方向に行かない」ということなのです。 当たり前で馴染み深い習慣的なパターンを、簡単に変えることはできないのですが、 レッスンを通して少しずつ時間をかけながら「新しい回路」を作ってい行くのです。

 アレクサンダー・テクニークが単なるボディワークのようなものと一線を期するのは、こういった側面があるからでしょう。

 「この意味を理解しているのと、していないとは、本当に大きな差があるのよねぇ・・・」と温泉上がりに思考を巡らす八木でした(笑)

 

 先日、アマックコーポレーションのアレクサンダー・テクニーク指導者養成コースで、指導させていただく機会を頂きました。 オランダから帰国後、テクニークの指導を始めて、8年目。 もうすぐ9年目に突入しますが、私自身も、改めてテクニークを学んだ過程を振り返る機会となりました。

 普段、レッスンを行う際にも、生徒さんの視点や経験、現在の問題点など、色々なことを念頭に置きながらレッスンを進めていきます。 ただ「テクニークは、こうなんです!」という一方通行的な指導はしません。 人それぞれ、考え方、捉え方、理解度は異なります。 違いを捉えながら、心と身体が協調して機能していくために、少しずつ段階を進めていくのです。

 今回も、その視点は変わりませんが、自分が指導者養成コース在籍中に何を感じ、何を考え、発展させ・・ 先生方に見守られながら、深く、深く理解していったのか・・・養成コースの生徒さん達を観察する中で、 テクニークの「教育的価値」を改めて実感することとなりました。

 テクニークは、正に「教育」です。

 私自身も教育現場に身を置いていたこともあり、「教育」の意味は深く理解しているつもりです。 でも、テクニークの指導を始めて、また、テクニークの日本での状況が変わるにつれ、 あまりにも商業化されてきていないか?と危惧しています。

  F.M.アレクサンダーは、自身の名誉や名声を上げることには目もくれず、彼の発見についての研究に没頭していたといいます。 表面的な現象(声がでるようになったなど・・)だけを提示することに熱中していたとしたら、 単に「マジック的なことができる人」としてもてはやされるだけで、その後100年以上に渡って継承されるものとなっていなかったでしょう。

 F.M.アレクサンダーの発見した内容を、我々指導者が継承していっているということを忘れず、 深い「教育的価値」を提供できる指導者にならなければ…と改めて感じています。

 テクニークは、深い学習です。

そして、テークニークの指導者は、教育者なのです!

 

 ある、ひょんなことがきっかけで、最近「倒立・側転」を指導するようになりました。 そう、皆さんも学生のころ一度はやったことがある、あれ!です。
不得意だった人にとっては思い出したくない・・・あれ!ですよね。

 小学生の姪っ子が「おばちゃん!側転ができないから、教えて!」というのです。 以前はバリバリの(笑!)保健体育教師でしたから、これらのことはお手の物・・・と、 彼女をあっという間に「側転ができる子」にしたのですが・・・・いやいや・・・それでは終わりませんでした。 5歳のわが娘もやりだし、私の周囲の子供たち・・・ そして・・・テクニークを指導している生徒さん(大人)たちも・・・!!!!!

 そう、終わらない・・・というのは、「テクニークの理論がこの指導にどれだけ役立っているのか」について 私の探究心をくすぐったのです!!!

 勿論、運動に関して、その指導法など経験も積んでいますし、知識もあります。
加えて、テクニークの指導者として、テクニークが運動に関しても有効であることは分かっていましたし、私自身が運動する場合に実感することも多々ありました。 しかし、「運動を指導する」場面で、これほど有効なものか…ということを、改めて実感し、私自身感動させられたのです!

 つまり、テクニークの理論をベースにしながらこれらの指導を行うと、 身体全体の調整が上手くいきますから、バランスが安定し、無駄な緊張がなくスムーズに動けるようになり、 あっという間に「できない・・」から「できる!」に展開するのです。

 あたり前といえば、あたり前なんですが・・・・
 (テクニークの指導者から見れば…)

 小さな子供たちはまだまだ未知数で、変化する余地はかなりありますが、 特に、学生時代に「これはできない!」と思い込んでいた20歳前後の大人にとっては、大きなチャレンジ!だったろうと思います。 しかし、テクニークの理論を理解し、それを活動の中で生かす・・ということを実践の中でできるようになった時、 今まで「無理!私はこれが苦手!」と思い込んでいた活動を難なくこなすことができるようになるのです。

 ある生徒さんは、倒立や側転ができた時、「この歳になって、こんなことができるようになるなんて…八木先生~~!アレクサンダー・テクニーク万歳!!!です~」と、 感激のあまり大泣きしていました(笑)。

 テクニークの指導に関しては、基本的に、生徒さん自身が根本となる理論をしっかりと理解し、 実践できるようになることです。 その後、それぞれの専門分野や日常でどう生かすかは、 生徒さん自身の問題で、我々指導者が顔を出せない範囲だと私は考えています。

 しかし今回、姪っ子に教えたことがきっかけとなり、私の探究心がくすぐられ、 「運動の指導」と「テクニークの指導」をかなり近い距離で行ってみました。 実践でどう生かすか?ということを生徒さんたちにリアルに理解してほしいがために、 実験的に「倒立・側転など」を例に挙げて行ったのですが、私にとっては、新しい局面が見えてきたような気がします。

「やっぱり、アレクサンダー・テクニークってすごい・・!」

改めてテクニークに惚れ直している 八木 です(笑)!

 

 昨年末から「顎関節症」でお困りの方にレッスンをする機会を頂きました。

 もともと噛み合わせが上手くいっておらず、 それを完全に解消するには多額の費用をかけて外科手術をしなければいけないといわれていたそうですが、 最低限口を開くことができるということで手術にまでは至っていないということでした。 また、肩こりや腰痛などその他の問題にも非常に悩んでおられる様子でした。

 テクニークができる事は、噛み合わせを矯正することでも、口を開くエクササイズをすることでもありません。 ご本人がご自分の使い方(身体、心を含む)を上手くできるようになることです。 顎の骨格を変えることはできませんが、顎の噛み合わせに影響しているだろう 無駄な緊張(首、肩、背中、顎周辺などなど全身に及ぶ)を改善し、 正しく使うことで今よりもスムーズに使うことができるはずです。
 そのためには、全体(全身、心も含む)の使い方からアプローチしないといけません。 心身全体が効率よく機能的に使えるようになることで、 顎の動き、更には肩こりや腰痛に効果が期待できるでしょう・・・・・・

・・・といったお話をし、理解して頂いた上で、
「とりあえず、数回レッスンを受けてみて下さい。 顎のことについて具体的に効果がでるにはある程度時間がかかりますから、 あせらず様子をみながらいきましょうね。」 と話してレッスンが始まりました。

 生徒さんも非常に明晰な方で、「顎をなんとかしたい!」という目先の目的に走らず、 ご自身の使い方をしっかりと見つめ直し、テクニークの理論を理解して下さったこともあり、 初回のレッスンから非常にいいレッスンを行うことができました。すると初回のレッスン後、早くも顎の動きに効果がでてきたのです。 加えて、腰痛や肩こりも楽になった、と喜んでいらっしゃいました。

 これほど早く効果を実感できるとは、私も、生徒さんご自身も期待していなかったことなので 非常に驚いたのですが、目的に走らず、手順を確実に踏んだことが功を奏したのでしょう。

 アレクサンダー・テクニークの理論の中に「end-gaining , means-whereby」という考えがあります。 まさにこれですね。 そして、如何にアレクサンダー・テクニークの理論が正しい!!のかを証明したと言えるのではないかと思う出来事でした。

 ただ、勿論、たった1回のレッスンでは自分自身の使い方を改める事は不可能です。 一時的に改善されても、必ず元の状態に戻ってしまいます。 それは、長年馴染んいる習慣的な使い方の方が圧倒的に強いために、すぐに「いつもの自分」に引き戻すからです。 そこから徐々に自分のものとして習得するにはある程度のレッスンが必要となります。

 上手くいったり、いかなかったり・・・・・暫くは行きつ戻りつしながら・・・・ 以前の悪循環に陥ってしまっていた自分から、 もっと楽で自由で機能的で効率的・・・・な自分に! 少しずつ、少しずつ・・・・・・・・・!!!

 アレクサンダー・テクニークは理解するのも指導するのも難しい!
 でも、素晴らしい!!!!!と改めて実感しています。

 そして、皆さんの喜んでらっしゃる顔を見ると、私も本当に幸せです。

 今年も頑張ります♪

 

 このひとつ前の「道先案内人」の中でも述べましたが、 「テクニークを通して私が果たす役目」を考える事が多い今日この頃です。

 人それぞれ、色々な問題を抱え、それぞれの考えの中で悩んでいます。 そこにちょこっと顔を出し、誘導していくことが私のできること。 最終的には、生徒さんご自身で自分の問題を解決していくのを、 傍らで見守り・・・・見送る・・・とでも表現しましょうか・・・。

 私がいつも思うことは、「学んだことをご自分の財産として生かして欲しい」ということ。

 アレクサンダー・テクニークの内容は実にシンプルですが、様々な影響を我々に与えます。 きちんと理解できれば、いつでもどこでも自分で実践することができ、 今後の人生の中で大いに役立つものとなるでしょう。

 テクニークが人それぞれの生き方を左右することは、勿論!!できませんが、テクニークを通して学んだことを生かして、新しい毎日を送って欲しいと思っています。

音の音色に幅が出たり、
咳がとまったり、
身体のゆがみが改善されたり、
腰痛や肩こりが解消したり、
顎が開くようになったり、、、、、

今まで悩んでいたことを解決することで、新しい新鮮な毎日が開けてきます。

「先生ってすごいですね!」と言われた時、「いや~アレクサンダーがすごい人だったんですよ・・」と照れながら咄嗟に答えたことがあります(笑)。

アレクサンダー氏に敬意を表するとともに、 世界中にいるアレクサンダー・テクニーク教師のひとりとして
恥ずかしくない確実な技術を提供できるように・・・・日々精進しなければと思っています。
どうぞ! 私のこの「技術」を皆さんの問題解決にお役立て下さい(笑)!


 日本に帰国してから早7年目。非常に月日のたつのは早いと実感するとともに、「指導することは単なる知識を提供することではない」と実感する今日この頃です。

 アレクサンダー・テクニークだから余計にそうなるのでしょうが、本当に色々な疑問をもった方がレッスンに来られます。 先日は「咳がとまらない」ということでこられた方がいました。 特に原因が分からず、困り果てて、ここに辿り着いたと話されていました。

 最初は、テクニークがどれだけ手助けになるか?私自身も疑問が有り、「必要であれば、病院での治療など並行して行ってくださいね。私ができる事は、あなた自身の使い方をいい方向に導くことです」と話していました。

 しかし、レッスンが進むに従って徐々に咳に対する効果がでてきたのです。 咳を引き起こしている可能性のある、首や胸、背中などの無駄な緊張が取れてくることで、咳が起こりにくくなったのです。当たり前のように行っている普段の行いが、咳を起こしやすい環境を作り出し、そこから逃れられなくしていたのでしょう。ここに来られるまでに咳の原因を色々調べても分からなかった理由がここにあります。

 皆、何か問題が起こると、「なんとかして下さい!」と病院の先生などにすがりつきます。それで解決する問題であればいいのですが、意外と「自分自身が問題を引き起こしている」という観点はありません。他人任せなのです。

 今回咳がきっかけで私のところでレッスンをするようになった方は、「自分自身を見直す」という観点をしっかり持ち、他人任せでなく、自分に責任を持ちながらこの問題に対応されていました。アレクサンダーテクニークの理論を受け入れ、真摯にご自分と対話する姿勢をお持ちでした。だから、テクニークの効果を最大限に発揮することができたように思います。

 私は“道先案内人”だなあ・・・・・・。

 そう、指導とは、知識を提供することではあるけれど、提供した知識を生徒さん本人が実際に活用されてこそ、指導の価値がある。それぞれの人の問題を良い方向に導き、その人の財産として活用してもらうこと。これが私の仕事の真価でしょう。
 うん、うん、、、、、私は道先案内人なのだ。

 そう実感する今日この頃です。

 日本に帰国してから早7年目。非常に月日のたつのは早いと実感するとともに、 「指導することは単なる知識を提供することではない」と、実感する今日この頃です。

 

 今回の東北関東大震災において被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。

 震災後、心がかき乱され、何とも言葉にならない日々が続きました。
 報道を見るたび、読むたびに涙が止まりませんでした。

 その他の問題も様々な影響を及ぼし、以前のような状態に戻るには時間がかかるでしょう。その間、様々な報道についても賛否両論ありますが、私自身は「頑張ろう!」という言葉がでません。

 実は、私自身も阪神淡路大震災の際、神戸市灘区に住んでおり、被災したひとりです。大きなショックから解放されるには、日ごろの生活を徐々に取り戻すこと、そこに含まれる長い時間が必要だと感じました。「頑張れ!」と声をかけられるよりも、この方が重要なんだと実感しました。

 たまたまですが、ひとつ前の「ひとりごと」の欄に“頑張らなくていいんですよ。具体的に動くことだね” という相田みつをさんの言葉を用いて話をさせてもらいました。

私は今こそ、「具体的に動こう!」という言葉を自分自身に言い聞かせています。

 今、自分にできること、
 義援金を送ること、節電すること、買占めはしないこと・・・・・・
 ちまたで言われていることは沢山ありますが…  

 自分が積み重ねてきた知識を一人でも多くの方に提供し、生かしてもらうこと。
それが私、八木ができる最大限なことなのだと・・・・・・。それが被災した方々へ遠巻きながらエールをおくることになるだろうと信じています。

 生徒さんの一人が「音楽の力を信じて・・・演奏会を行います!」と今回の震災後に連絡を下さいました。

 それぞれの会社が、それぞれの立場の人が 今、自分のできることを信じて! 具体的に動き! 一日一歩、ゆっくりでも確実に進んでいくことが大切だと私は信じています。

 全ての人が元気を取り戻す日がくることを心から!心から!願っています。


 10年以上前に購入した「相田みつを」さんの色紙を本棚の中に見つけました。

 あの頃も、この言葉に魅了され、部屋に飾っていたのですが、そのことをすっかり忘れていました。

 当時、私は超~!!多忙!!な毎日を過ごしていました。休みもほとんどなく、仕事!仕事!仕事!自分の希望していた仕事につけた喜びや充実感もありましたが、慢性疲労と数々の身体の痛みを抱えながらも、自分のことをケアする余裕もなく、とにかく、とにかく、走り続ける毎日でした。その頃、この言葉がどれだけ助けになったか。みつをさんのやわかい字体にも和まされ、「そうそう、頑張らなくていいのよ・・・」なんてつぶやいていました。

 で、今回、久しぶりに本棚の中から色紙がひょっこり・・・!

 再び新鮮な出会いとなりました。

 そう、今、私がアレクサンダー・テクニークの教師として指導していることと、とてもリンクしているのです!

 私はレッスンの中で「無駄な緊張」について説明する時、「頑張らなくていいんですよ~」とよく声をかけます。必要なことを、必要なだけすればいい思い込みの“頑張り”は必要ない。効率よく、効果的に自分を使うために、どうすればいいか?を考えつつ行動に移していくことの方が大切です。

「具体的にどうすればいいのか?」を提示したのが、アレクサンダー・テクニークなのです。

  我々はついつい「頑張れ!頑張れ!」と自分を鼓舞してしまいます。頑張ることは、過度に緊張し、必死になることではないのです。「したいこと」を「できるようになる」ために、どのような方法でどのような段階を踏んでいけばいいのか??を具体的に!!考えることなのです。

 アレクサンダー・テクニークをきっかけに、「頑張ることの本質」を考えてみませんか? この色紙は再び光を浴びて、レッスンルームの宝になりました!


 私はレッスンが進んでいくにつれて、このことについて話すようにしています。

 レッスンが始まった頃は、皆、感覚の変化や痛みが緩和されたことなどに夢中になります。しかし、レッスンが進むにつれ、「自分と向き合う」機会が多くなってくる中で、「自分の今までの習慣(考え方も含む)が如何に自分を苦しめてきたか?」ということ、そして、「それを変えていくためにはどうすればいいのか?」ということにぶち当たります。そしてレッスンで学んだことを実践しようとして、上手くいったり、上手くいかなかったり、 暫くは行きつ戻りつしながら、少しずつ理解を深めていきます。本人にとっては非常に辛い部分であり、自分が長い年月をかけて築き上げてきた価値観をひっくり返さなければならない大作業に直面するのです。

 もうちょっとわかりやすく具体的に説明すると・・・・・・

「肩がこる」ということを例に述べてみましょう。
「肩がこる」というのは、「肩に異常な緊張をしている」ということ。つまり、「肩を強張らせているパターンを持っている」ということです。しかし、これは肩だけに注目しても改善できず、肩こりは再び必ず!やってきます。つまり、肩がこってしまう前に、「こらない!」ようにしなければ根本的な改善にはならないのです。それには、身体全体のバランスを整えつつ、「本人自身が自分の緊張パターンに反応しない」という作業が必要になってきます。

 肩がこる状態を作るのは、長年慣れ親しんできた自分の緊張パターン。
それに反応しないというのは、ここで文章をスラスラと読むうえでは想像できないほど、大変な作業なのです。

 みんなそれぞれ、自分の価値観を身体にため込んで生きています。それが当たり前になって「正しい!」と感じていますから、それを手放すのはとてつもなく恐ろしく、怖く感じるのです。

 先日、こんな話を聞きました。
「アレクサンダー・テクニークで学んだことは普段の生活の中で実践しようとしています。でも、バレエをするときはできません。こう(自分のやり方)でないとで踊れないんです・・・・・。」

 彼女は自分の身体が覚えこんでいるやり方(価値観)を用いないと、怖いのです。一方で、自分の身体に問題が多々出ていることを認めているにもかかわらず・・・・・・

 彼女の場合、急に劇的な変化をすることはないでしょう。でも、少しずつ自分が信じ込んでしまっている感覚を見直しながら、「えええ?これでも踊れるの?」という体験を増やしていってほいと思います。そうすれば、もっと楽に、優雅に、タフに踊れるはずです。

「価値観をひっくり返す作業」というのは、そのひとにとって予想以上の作業であり、本人の同意がないと始まりません。

 このコラムの「アレクサンダー・テクニークを学ぶタイミング」のページでも述べていますが、やはり人それぞれのタイミングなのだと思います。

 みなさん!「試してみようかな…?」から始めてみてくださいね。
 ここからが、アレクサンダー・テクニークの本番であり、醍醐味ですから!


「先生、からだが軽くなりました!」「歩くことがこんなに楽だなんて…」と人それぞれ様々な感想を表現してくれます。「よかったですね。お手伝いが出来て私も嬉しいです!」と返答することが多い。

 私自身も身体のトラブル百貨店のような時期があったので、そういう感想を聞くととても嬉しく、 アレクサンダー・テクニークの教師になって良かったと心から思います。

 でも、パフォーマンスを高めたいという気持ちの強い方にとっては、“痛みが取れた”“楽になった”では目的に到達しません。それらが遠い意味でパフォーマンスの質を高めるのは当たり前ですが・・・(怪我だらけで、痛みを抱えながら良いパフォーマンスができるわけがない) それでも単なる通過点なのです。

 無駄な緊張をしないとはどういうことなのか? 
 からだ全体(自分全体)が効率よく機能するとはどういうことなのか? 
 どのように自分と向き合えばいいのか? 習慣とはどういうことなのか? などなど・・・・ 切り口は沢山ありますが、そういったことを理解しながら、それぞれの“パフォーマンスの際に、自分を上手く使いこなせるようになること”が最大の目的です。>

 ここ数年、俳優を目指す人たちにワーク(レッスンのこと)をする機会を頂いていますが、そこで考えることも非常に多くあります。俳優にとっては決められた型を極めていくのではなく、その人間を現実感を持って描き出し、場面ごと、そして役柄によって変化することを要求されます。その中で、自分が無意識に行っていることや、長年蓄積された習慣が邪魔ものになるのです。変化を導くためには、自分が行っていることを捉えられないと困難な作業になります。

「選択」という言葉をワークの中ではよく使うのですが、「今、私はこのように使いたいから、こう動く」と、意識的に選択できるかということなのです。自分の感覚の中にどっぷりとつかったままでは、この「選択」の作業をスムーズにすることができません。時には、アレクサンダー・テクニークのレッスンの中では 「これはやめましょう!」 といわれるような使い方を必要とする場面があるかもしれません。でも、自分が見えずに無意識に行うのではなく、根本的な自分自身の使い方を理解している上でそれを選択した場合、それは「習慣」ではなく「表現」になり得るのです。 「これしかできない・・」のではなく「これもできる!」自分になるのです。

 先日、イスラエルの舞踊団「バットシェバ」が来日しているという記事を目にしました。その中で、芸術監督で振付家のオハッド・ナハリンが鏡についてこう話しています。

「鏡はダンサーを甘やかす。すぐれたダンサーは自分の姿が見えなくても自分のフォルムや動きををつかめる」と述べています(日本経済新聞 4月26日付)。

 つまり、自分がどのようにパフォーマンスしているのか? どのように表現したいからどのように自分自身を使っているか? ということを意識的に捉えられている人が優れたダンサーであるということなのだと思います。これが高度な技術の土台なのです。

 様々なパフォーマンスでは、日常では行わないような動きを究極の部分まで高めていくことを求められます。例えば、バレエの動きは非日常的です。日常ではつま先をトウシューズに押しこみ、股関節を180度近くまで開く必要はありません。その中で、本来の機能を顧みることなく、特殊な作業を習得していくことに集中してしまうから、挙句の果てには故障を繰り返すことになるのです。(レッスン終え帰宅するバレリーナの姿は悲惨である。胸は落ち込み、股関節は固く前に突き出し、膝は大きく外を向いたままバタバタと歩いている・・)

 アレクサンダー・テクニークを学ぶことで痛みを改善したり、怪我を予防したり、スタミナを維持したり・・・・・得られることは多々ありますが、特に「パフォーマンスの質を高めるという観点」では、このようなことが言えるのではないかと思います。

 人間本来の“機能”についての理解を含めて「自分を上手く使いこなす」とはどういうことなのかについて深く理解し、かつ実践できること。これが土台となり、そこに上乗せされていく特殊な技能を意識的に選択しながら、その引き出す作業がスムーズにできるようになること。

なのではと思う。     んん・・・・まだまだ私の思考が続く・・・・・・・


  娘は今、「おトイレに行く」ことに夢中です。つまり、「おしっこ」と「うんち」が自分でできるようになってきたのです!(こんなところでそんな下ネタを!!!・・・とお怒りの方、ごめんなさい。
子育て中の人にとってはこういう話は日常茶飯事なのですが・・・・ちょっとだけ、我慢して読んでくださいね)

 ここ半年ほど、毎日毎日「そろそろオムツからパンツになろうね~」 「おしっことうんちが出たいな~!って言いだしたら、トイレに行ってお座りするんだよ~」 といい続けてきました。しかし、娘は「嫌!」と言うばかり。で、たまにやる気になったのでパンツで過ごしていると、お漏らしの嵐。ソファーから何からおしっこまみれにしてくれる・・・・。はああああ・・・・とため息をつきながら、ついつい愚痴愚痴と娘に向かって言ってしまう毎日でした。 いつになったらオムツから開放されるんだろう・・・と。

 しかし、、、、娘なりに考えていたのです。そう「おしっこ」「うんち」のサインをキャッチし、もらすことなくトイレに走り、そして用を足す! その手順を遂行できるように、“タイミングを見計らって行動に移す”ということを。失敗を繰り返しながらも小さい頭で身体で考えていたのです。

で、ある時、私も気がついたのです。
「あっ!私、生徒さんに同じ事を話している」と。

 つまり、無意識に行っている行いを認識することでそれを意識下に置き、その上で行動を選択し、実際の行動に移していくこと。つまりConscious Guidance and Control です。

  まさに、娘もこの過程を「通過」していたのです。今までオムツに垂れ流し(汚い表現でごめんなさい!)状態で、いつ排泄していたのかわからなかった(無意識)のを、徐々に自覚できるようになり(意識下にあがってくる)、そのタイミングを見計らいながら行動に移し(行動の選択)、トイレという場所で必要なことを実行に移す(意識的に実行する)。

 勿論、排泄の訓練というのは動物もできることで、特別すごいことではありません。本人も、理論的に考えたわけでもなく、皆ができるようになるひとつの山場を越えてきたに過ぎないのですが、傍で観察していると、非常に意味のある過程を通過しているのだと理解できます。

ひとつレッスンでの具体例をあげてみましょう・・・・・・・・
「首を硬くすることをやめましょう」と話すと、最初は「硬くなっているのかどうかもわからない」とほとんどの人が答えます。でも、「硬くしない」という指示を出し続けながら行動を繰り返すことで、硬い状態がどういうことなのかを理解するようになります。そして硬くなる前にそれを「しない」という選択ができるようになり、更にはあらゆる行動の実践の中でそれを使うことができるようになるのです。

 アレクサンダーは意識的に捉え行動することの価値を深く理解し、それを主張しています。 我々もあきらめることなく、自分自身を上手く使いこなせように、意識的に!!過ごしていきましょう。

 娘に負けてられない!!!!とこの発見を非常に面白がってる私です(笑)。

 

 以前から考えていることですが、アレクサンダー・テクニークの考え方を受け入れることができる“タイミング”というものが非常に大切なように最近特に感じています。

 レッスンにおいても、テクニークの考え方を素直に受け入れる気持ちがあると、数分のうちにみるみる変化が起こります。F.M.アレクサンダー自身が「心を開いた生徒であれば、2,3分で多くの 欠点を取り払うことができる」 と言っている通り、受け入れる態勢がある無いによって状況は一変します。

 これには、教師との相性、説明の仕方、信頼関係など、その他の要因も関係してくるのでしょうがレッスンを受けるそのご本人が「今、どういう考えの下で自分を変えようとしているのか?」というタイミングが最も大きな比重を占めてくるように感じます。

 私が出会った生徒さんたちもそれぞれの問題を抱え、どうにかしたいと思っている人ばかりです。しかし、レッスンが進むにつれ興味が薄れる人、あっという間に深く理解をする人、数年の年月を経てレッスンを再開する人・・・様々です。

 そういえば、私もオランダで初めてレッスンを受けたとき、「あなたがアレクサンダー・テクニークに興味を持つかどうかわからないわよ・・」というようなことを言われました。それには、「あなたはアレクサンダー・テクニークを学ぶ用意ができてる??」という意味を含んでいたのかもしれません。その時点の私は、何をやっても上手くいかず、自分のやり方全てが信用できなくなっており、今まで信じてきた自分の価値観を崩す作業を受け入れることができるほど打ちのめされていました。だから、アレクサンダー・テクニークの考えを素直に受け入れることができたのでしょう。(以前は非常に馬鹿にしていたのですが・・・・!!)

 人それぞれ思考の過程は異なり、興味の方向も異なります。一度出会って、その後興味を失っても、数年後、何十年後、アレクサンダー・テクニークの考え方を思い出し、再び始めてみるのも、その人の“タイミング”なのだと思います。

 教える側としては、興味を失うことなく深く理解し、役立てて欲しいと願いながらレッスンをしているのですが・・(笑)。これは教師が介入できない、本人の領域なのでしょう。

 どういうタイミングであれ、アレクサンダー・テクニークを学ぶことで自分の問題に 向き合うきっかけを見つけて欲しいと日々願っています。

初めて興味を持った方!
また、改めて学びたい方!

いつでも、お待ちしていますよ!!


  最近、「アレクサンダー・テクニークって一体何なんですか?先生によって説明が違う気がするし・・」という質問をよく受けます。「アレクサンダー・テクニークとは?説明せよ」という課題が指導者養成コース中にも出されるくらい、非常に難しく、教師間でも常に議論になることなのです。

 では、なぜ教師によってその表現が違ってくるのでしょうか?
それは、その教師がこのテクニークに興味を抱いた最初の出発点、あるいは一番こだわっているポイントが違ってくるからだと思います。たとえば、「パフォーマンスを高めたい」という動機から興味を持った人と、「からだが常に痛くて、それを解消したい」という一心でアレクサンダー・テクニークにかかわり始めた人とでは、多少求める部分に違いが生じてきます。

 もちろん、いろんな窓口からテクニークに入っていっても、最終的な根本の理論がすべて同じところに行き着くんだということを理解することができれば、しっかりとアレクサンダー・テクニークを理解できたと実感できるだろうし、先ほどの教師間の説明の違いも気にならなくなるでしょう。ただ、「テクニークとは何?」の説明の難しさから、教師側も、ついついわかりやすい部分から、自分が一番こだわっている部分から説明してしまうために、このような疑問が生まれるのだと思います。

 私は時々こういう表現を用いて説明することがあります。
「どんな植物でも、土が肥えていなければうまく育ちませんよね。いい土があって、初めて、強く元気な植物が育つ。 植物の品種は何であれ、土を整えることを疎かにしてはいけない。アレクサンダー・テクニークはその土のコンディションを整える作業のようなものです。ですから、音楽家であろうとも、 ダンサーであろうとも、アスリートあろうとも、腰痛に悩んでいる人であろうとも、妊婦さんであっても、アレクサンダー・テクニークができることは同じです。 つまり“根本的なわれわれ自身の使い方”にアプローチするということなんです。土を肥やすことと同じです。様々な分野で利用されているのは、そのためなんですよ。」

 人によっては理解しやすい説明、理解しにくい説明、いろいろあるでしょう。 教師によってその表現に違いが出るように、理解する側にもピン!とくるポイントが違うはずです。 自分が理解しやすい説明をしてくれる教師を探すか、それとも「今は理解できなくても、まずレッスンを受けながら時間をかけよう」と構えるか。その人の判断でいいと思います。 最終的にしっかりとテクニークの理論を吸収できれば、入り口はどこでもよいのです。

 私がアレクサンダー・テクニークに初めて出会った時は、言葉も十分に使えなかったので、後者を選ぶほかありませんでした。ただ、教師のすばらしい手がすべてを語ってくれていたことは確かで、説明など必要ありませんでした。今も恩師の手を鮮明に覚えています。

 そんな教師になりたいと恩師の背中を追いながら、いいワーク、いい説明ができるよう、精進・工夫の毎日です!

 

  「そうか・・私ってすごい肩こりだったのよね・・・」と呟いてしまうくらい、“肩がこる状態”を忘れていた自分に気づきました。 そういえば、我が家のマッサージチェアは娘のおもちゃ置き場となり、その機能を発揮する事も無く数年が経過しています。

  実は以前、肩にビー球が埋まっているのでは?と思うくらいの硬さのしこりがあり、すごい肩こりの持ち主だったのです。それをほぐそうとマッサージチェアに毎日座っても、指圧に行っても、鍼灸に行っても、カイロに行っても、 結局はそのしこりがほぐれることは無く、益々肩が硬直していました。そして挙句の果てには、年中ガチガチになった肩に加え、吐き気と頭痛に悩まされていたのです。

 アレクサンダー・テクニークに出会ってから、徐々にその苦痛から開放され、自分が肩こり症であることを完全に忘れるほど改善されたことは、その頃からすれば考えられないくらいの驚きです。

 ところが先日、美容室に行った際に受けるマッサージで思い出したのです!全くこっていない私の肩を、バンバンすごい力で叩いてくる・・・“こっているに違いない!”という思い込みが美容師の手に力を込めさせているのでしょう。 とにかくすごい力で・・・。「すみません、止めて下さい!!」と言えば良かったのですが、その店で最も偉い風貌の人で、そんなことは言えない雰囲気に、その間の2,3分我慢することを選んでしまったのです。その後です。 身体が以前の肩こりを思い出したかのように、 反応し始めたのです!そして、自分の記憶の中の「肩こり」と再び対面することとなってしまいました。ここ暫くの間、肩がこっていた自分を忘れていたくらい、肩こりとは無縁だったのに・・・。

 そう、身体は記憶しているのです。暫くの間忘れていたものが、むくむくと蘇る。そしてその記憶を辿りながら、反応を始めようとします。
「この記憶に反応しないようにしよう!」と自分自身に語りかけるようにしましたが、身体全体がピクピクと反応しているのが分かりました。身体の記憶の深さに改めて驚かされ、実感することになりました。

 今の自分は、“自分自身に対してどういう風に働きかけながら、良い状況を作り出し、維持していくか?”ということを理解しているため、以前のような悪循環に陥ることは無く、 肩こりの記憶に巻き込まれることは結局ありませんでした。

 でもどれだけ時間が経とうとも、身体は記憶しているのだということを改めて実感する出来事でした。

 

「身体がおもしろい!って言ってます」と、以前ある生徒さんから言われたことがあります。

 また最近、別の方から「身体の声」という言葉をいただきました。以前は身体がブラックボックスのようで、身体が言わんとしていることをあまり気にも留めていなかったというお話でした。身体自身の反応に素直に耳を傾けることができた喜びがこれらの言葉には詰まっているように感じます。

 さてさて普段の我々は、身体の声を正確にキャッチしているのでしょうか??
痛い!辛い!しんどい!などなど・・何かしらの症状として表にでる頃には、少なくとも殆どの人が気づいています。 でもその前に、もっと普段の段階で、身体の状態をキャッチできるはずなのです。 我々は何も問題が起こらないときは身体を忘れがちです。そして、何でも理解している!思い通りになる!と考えがちなのではないでしょうか。 つまり、支配欲の強い意思(心)が身体の声に耳を傾けることを拒んでいるのです。それを繰り返すことによって益々感覚を鈍らせ、鈍感な身体を作り上げていきます。 そしてその先には、“思うようにならない自分”が作り上げられていきます・・・。その頃には、思うようにいかない原因が分からず、悪循環の中にどっぷりと身を預けてしまう形になってしまうのです。

 アレクサンダー・テクニークの中に「信頼できない感覚認識」という考えがあります。習慣や癖(心とからだを含む)によって構築された感覚には 信頼できない疑い深い部分が多くあり、それに頼ることは危険である、ということです。よって感覚に頼らず、THINKによって自らを導いていく ということなのですが、ある意味、自分の価値観(習慣や癖によって構築されたもの、筋感覚を含む)を捨て、身体の声に素直に耳を傾けてみなさい・・と解釈できるのではないかと思います。

  「アレクサンダー・テクニークって何??」という質問に対して、多くの先生達(国内外を含め)が、あらゆる切り口からテクニックの特徴を 説明しています。最近では日本語の本も多く出回るようになりました。

 私がアレクサンダー・テクニークに出会ってかれこれ8年ほどになりますが、私にとって このテクニークは、「自分自身に責任を持ち、如何に向き合っていくか・・ということを学ぶ方法論」ということに 行き着いてくるように感じています。 常に今、その瞬間の自分と向き合い、会話し、そして行動していくこと。

 「今日は何だか首が硬くなってきたぞ・・緊張してるのかな?いやいや自分がイライラしているせいかも?自分の使い方が悪くなってるな・・」 なんて・・ そんな身近なことからでいいのです。

 アレクサンダー・テクニークを手がかりに、身体の声に耳を傾け、楽しみながら日々の自分と向き合って欲しいと思っています。


 最近私が気になる言葉があります。
 それは、「アンチエイジング」です。

 とくに美容方面で頻繁に使われている言葉であり、いつまでも若々しく美しくありたいという意味が込められています。また、この言葉は広く捉えれば「老化防止」です。正に、“老いとの戦い”!!!老いは誰にでもやってくるものであり、受け入れなければならない現実。

 垂れだがってくる筋肉、刻み込まれる皺・・・。あたかも重力という敵に屈服していくかのように捉えられている「老化」です。

 しかし、重力があるからこそ我々は立つことができ、重力があるからこそ大地に足をつけ歩くことができるのです。 つまり、重力は我々のサポーターなのです。 これを敵のごとく捉えがちな思考が、間違った方向に我々を導いているような気がするのです。

 矯正下着をつけて締め上げ、少しサイズが減ったと喜ぶ人。筋力トレーニングやマッサージをすることで、垂れ下がってきた部位がしまってきたと喜ぶ人。丸まってくる背中を伸ばす為に整骨院通いに精を出す人。顔の皺を消すためにマッサージに熱心な人。皆、若返ったと喜んでいる・・・。

 私は、サイズが減ったことや筋力がついたこと、マッサージなどを否定しているのではありません。しかし、如何なものでしょうか??その方向性に私は違和感を感じるのです。 重力と如何に向き合うか?ということを抜きにして、それを敵のごとく扱い、それに戦いを挑むようなアプローチは無駄であると言いたいのです。 重力の恩恵をしっかり受けた自分自身の使い方(アレクサンダー・テクニークではこれをuseと言います)がベースになり、その上でのプラスアルファ+αの努力であるべきです。矯正下着をつける前に、下着をつけなければならない状態を作り出している自分自身をまず見つめなおすべきではないでしょうか?もっと具体的に言えば、下腹が無防備に出てくるような、お尻が垂れてくるような姿勢で立っていないか?歩いていないか?動いていないか?ということです。

 アレクサンダー・テクニークの教師達の中にはかなり高齢の方々も沢山いらっしゃいます。私が実際にレッスンを受けた教師の中にも、90歳を超えた方もいましたが、皆、背筋がピンと伸び、軽やかで、歩く姿が本当に美しい。 F.M.アレクサンダーの晩年の姿(写真)も、非常に若々しい表情とその姿に魅了されます。若い頃に比べれば、皆、皺が増え筋肉の衰えもあるでしょう。しかし、重力に屈服していくような老化の仕方ではありません。大地に足が着くということを“グランディング”という言葉で表現されることがありますが、正に“グランディングされた優雅さ”とでも言いましょうか・・。

 人が生きていく上では常に「変化」を友とします。
 老化もそうです。
 その変化と如何にして向かい合うか?
 つまり、自分自身と向かい合うか?ということが最も重要なはずです。

 老いとの戦い”において、戦うべき相手は重力ではなく、自分自身です。
日々、どのように自分自身を使っていくか?ということなのではないのでしょう?


 “立ち上がる”・・なんて美しいことなんだろう・・と最近特に感じています。

 生まれて初めて立ち上がる我が子の姿を見るたびに、人間の進化の過程を目の当たりにし、そしてその美しさに魅了されます。最も重い頭はその重さを感じさせることなく上を目指し、 高さへの欲求が彼女を自然に“立ち上がる”という行為に向かわせる。寝返りをし、四つんばいで歩き、立ち上がり・・彼女の視野が徐々に変化していく。そして興味深いことに、その行為自体を楽しんでいるのです。

 皆、誰もがこの過程を経て立ち上がり、移動しながら行動範囲を広げ、成長していきます。でも、我々大人は何とお粗末なのでしょう・・・。「立ち上がる」こと一つを楽しむことができないでいます。日々の忙しさ、目先の仕事、慌しい日常の中で、今その瞬間に自分のしていることに気を向ける余裕がありません。 これが大人ということなのでしょうが、それによって失われてしまうものも多いということに、彼女の満足げな表情を眺めながら気づかされます。当たり前のようにできること。当たり前のように繰り返していること。 それが本来基盤となるもっとも大切な我々の持つ機能です。 しかし、その機能を妨げ邪魔をし、結局は自分自身を苦しめてしまうのです。そして、立ち上がるのにも「よっこらしょ!」と声を出してしまう始末です。 皆こんなに楽しみながら美しく立ち上がっていたのに・・・・。

 私はアレクサンダー・テクニークに出会って以来、幾度となく「立つ座る」を含めたワーク(チェアワーク)を受け、また教師という立場で指導してきました。一見とてもシンプルで馬鹿馬鹿しいことの繰り返しに思えますが、なんのなんの・・・やればやるほどその深さに驚嘆しています。簡単に説明できることではないので今は省略しますが、少なくとも、その楽しさ心地よさを再認識することは間違いありません。 そして、「自分が忘れてしまっていること」がいかに多いかということに気づきつつ、その意味の深さがどんどん見え始めるのです。

 3年間の教師養成コースに在学中、ある日私が気づいたことがあります。それは「よっこらしょ!」と言わなくなった自分に気づいたのです。 立ち上がりながら満面の笑みを浮かべる我が子にはかないませんが、私もいつまでも心地よく楽しみながら“立ち上がって”いきたいと思っています。


 この一年の間、私の身体は劇的な変化を遂げました。

 つい先日まで大きなお腹を抱えて歩いていたのに、もうぺちゃんこです。そして体重も約10キロほどの幅で変動しました。とても不思議な感覚です。 男性には決して経験できない変化であり、女性ならではの「大仕事」です。

 ところで、新しい命が胎内に宿り始めると、女性のからだには様々な劇的変化が起こり始めます。「妊娠」中は“つわり”から始まり、“体重の増加” “体型の変化” ホルモンバランスの変化から引き起こされる 様々な“不快症状”・・・。人によって症状、感じ方はかなりの個人差がありますが、妊娠中は大きな激変の自分に直面します。日々変化する自分自身に戸惑い、困惑することも多く、心身ともにバランスを崩しやすくなります。特に、妊娠後期になると、腹部が大きくなり重さが増し、それによって立ち方、歩き方、座り方・・ 普段の行動が普通にできなくなります。 この間、腰痛・肩こりなどの不調を訴える人も多く、 妊娠ガイドブックには必ずこういったトラブル解消の為のエクササイズ(ストレッチなど)が記載されています。また、人によっては様々なトラブルを経験することもあり(例:切迫流産、早産など) 精神的にも非常に不安定になりやすくなります。

 そして「出産」。
特に初産の場合は「どういった状況になるのか?」「痛みはどのくらいのものなのか?」など、未体験に対する不安・心配・恐怖感が増します。 一昔前に比べると、いわゆる「出産のための学習」をする機会が増え、漠然とした不安ではなくなってきていますが、それでも「安全に出産できるだろうか・・」という 気持ちは誰でも常に持っているものです。そして陣痛・分娩時の信じられないほどの大作業。

 その後突如として始まる「育児」。
身体の方は、腹部がぺしゃんこになったことで妊娠中のバランスから極端な変化をとげます。また分娩時のダメージや骨盤の緩み などによって、直後は歩き方など何とも情けない状態になります。この状態の中、子供を抱きかかえ、あやし、授乳させ・・・という非常にハードな毎日が始まるのです。(この中で悪い習慣・癖を身につけることも多く、多くのお母さん達はあらゆる痛みに悩まされるのです・・)

 何と“激変の嵐”なのでしょう!・・・・・。

 この劇的な変化の中、“いかに自分自身が置き去りにされているか・・”ということを実感します。自分の意図とは関係なくからだ(身体的、精神的)は変化し、それに振り回されていく。 加えて出産後は周囲の環境も大きく変化します。その中で、自分自身の「センター」を忘れないことが非常に重要だと感じています。(これは、身体的なバランスだけでなく、精神的なバランス(安定)という意味を含めて、「センター」と表現してみたのですが・・・。)

 妊娠・出産・育児の変化の時期に、アレクサンダー・テクニークのできることは、腰痛や肩こり、過度の緊張などの予防・改善、ストレスの軽減など多くの局面において貢献することは勿論のことですが、それだけではありません。“自分自身と向き合いながらバランスを保っていく”ということを、建設的に意識的に導けるように なることでしょう。そう、Constractive Conscious Control です。 妊娠・出産・育児の中で起こる様々な変化を受け入れつつ、自分自身と向き合うこと。 大作業だけれども、素晴らしいこの時期を豊かに過ごす為にも、とても重要なことだと思います。

 アレクサンダー・テクニークは単なるエクササイズではありません。
どういう状況下にあっても、自分が自分らしく、健やかに安定感を持って過ごす為の「学習」だと改めて痛感しています。


  納豆が全て売り切れ??先日、スーパーのかご一杯に納豆を買い込んでいる人々を発見。「はは~ん。どこかの番組で特集があったのね・・。」そう思っていました。 そうこうするうちに、今回の内容捏造事件の発覚。で、とたんに納豆が売れなくなる・・・。

 このようなことは今までにも何度もありますよね。 バナナ、杜仲茶、ゴマ・・・などなど、その都度多くの人がそれに群がる。“~で痩せる” “~で血液がさらさらになる” “~で健康になる” 我々はこういった言葉に非常に弱い。そう、皆、健康を維持したいのです。元気に日々の生活を送りたいのです。しかし、その裏には、「健康を簡単に安易に得たい!」という心理が存在します。だからこの手の広告に振り回されるのです。 勿論、納豆もバナナもそれなりの効果があり、健康維持の為に一役買うことは間違いないでしょう。でも、それらに偏り、バランスが欠ければ元も子もないのではないのでしょうか?ピンポイントでしか物事を観察できなくなって、 とにかく手っ取り早く目的に到達したい傾向が見て取れます。

 アレクサンダー・テクニークのレッスンの中でも、こういった考え方に直面することが頻繁にあります。皆、とにかくすぐ効果を期待していて、即効何かしらの変化を確認できないと諦めてしまうのです。 「腰が痛いので何とかしたい」「首の違和感から開放されたい」など・・それぞれの人が特に重視する問題点は異なります。それに対する直接的な解決策をすぐに得ることができないことに、イライラしてしまうのです。

 でも、ちょっと考えてみて欲しいのです。人間の身体(身も心も)はそんなに単純ではないのでは?その部分のみを改善しようとしても、結局は他の部分が関与してきます。あなた全体を視野に入れてからその部分を捉えなければ、何も解決しないのでは? 首に問題点を抱えているのなら(例えば、頚椎にゆがみがある)、その歪みを専門家に戻してもらったら良い、というわけではありません。首の歪みはあなた自身の全身の使い方が関わっています。歪みを強固なものにし、それに伴う痛みを増長しているのは、 あなた自身が無意識に行っている日頃の活動(習慣)の繰り返しなのです。

 このテクニックは、決して部分のみを対象としていません。人全体が、如何に上手く機能していくかに対してじっくりとアプローチしていくことに大きな重点が置かれています。

 理論の中に、“end-gaining”“means whereby”という考え方があります。つまり、結論に急ぐな。そこに至るまでの過程を重視しよ。」ということです。Primary Control(首、頭、背中の関係性)をベースとして、 全身(身も心も)にアプローチしていく過程を大切にしなければ、問題の根本的な解決(結論)には至れないということです。

 皆、健康になりたい!元気になりたい!でも、ピンポイントで物事を見ることをそろそろ止めてみませんか?


 なにをもって「表現」と言うのか・・・長年私が悩み続けていることです。

 “心に思うこと、感ずることを、色、音、言語、行為などの形によって、表し出すこと”と、一般の国語辞典には記してあります。ここには、単なる意思表示としての「表現」も含まれるし、芸術として社会一般において評価の対象として位置づけられるものも、ある種の「表現」です。 どちらにおいても、これらのベースにある観念は、アウトプット(内から外への出力、外向きのベクトル)なのだと思います。隠されていたものを、表に出す。 無意識に閉じ込められていたものを、意識上に爆発させる。様々な言い方がありますが、要は、意図的に「出す」なのです。

 私自身、ダンスを専門に教える指導者として、「表現」に関わり、生徒達の人間性が豊かになることに教育的価値を見出し、そのための試行錯誤をしてきました。 しかし、今思えば、「表現」に関してはいつもアウトプットの意味でしか捉えていなかったような気がするのです。勿論、そのアウトプットの仕方が巧みになる事は素晴らしいことです。考えや思いを上手く表現できるようになるだろうし、他者とのコミュニケーションもスムーズに行えるようになります。 いわゆる、“表現が豊かになる”のですが、これによって、人は開放されるし、自分というものを確立していきます。

 しかし、アレクサンダー・テクニークに関わるようになって、ずっと疑問に感じてきたこととは、この「表現」の意味合いが、以前私が考えてきたものとは少しニュアンスが違うということなのです。 “内なるものを表に出す”というよりは、内なるもの、そのものが光り出すようにする”とでもいいましょうか・・・。このテクニックに関わっている人たちを観察していると、 単にそこに立っている(存在する)だけでも美しく輝き始めます。この状況を多く観察することができるのは、紛れもない事実です。 ここでは、一般的な「表現」を高めるような方法論をいろいろ試みたのではないし、表現しよう!と力んだわけでもありません。ただ、不要なもの(内なる光を覆い隠しているもの)を取り除いただけなのです。 つまり、その本人が無意識に行っていることに気づき、それとどう付き合うかを学習していく過程で、それまで縛られていた悪循環から開放されたということです。それによって、人の目を引くような表現体としての存在感をみせるのです!

  ある音楽家の知人がこんなことを話していました。「表現しよう!表現しよう!と、一生懸命になっている時は、素晴らしい演奏にはならない。押し付けがましいものになってしまい、観客の感動を呼び起こすことはできない」と。 また、私のところにレッスンに来られている方も、「今までは、演奏しよう!表現しよう!と必死になっていました。でも、今は、勝手に湧き上がってくる気がします。その方が自分の求めている音に近づいているようですし、それを楽しんでます」と、おっしゃっています。

 そうです。表現とは、確かに、“表に現す”ことですが、それと同時に、“表現体自体が光りを放つ”ということを忘れてはならないのではないでしょうか? 我々はこの「表現」という言葉を使う場合、どうしても外側に放出されるベクトルをイメージしがちですが、 そのベクトルの根元にある、その部分自体が純粋に光を放つよう、余計なものを排除することを忘れてはいけないのです。(厚い雨雲を吹き飛ばすように)

 押し付けがましい、無理やり表に引き出されただけの「表現」は、他者との共感どころか、単なる自己満足に陥るのが目に見えています。


 アレクサンダー・テクニークの特長は??と聞かれたら? ん・・・一言で表現しきれないのがこのワークの特長なのですが、他のあらゆるボディーワークやトレーニング、健康教育関係のワークと比較すると、「癖(習慣、間違った使い方)」を正面から捉えているところなのではないかと思います。 (勿論、アレクサンダー・テクニークをどの分野に位置づけるのが適当なのかについても、非常に難しい問題なのですが・・)

 毎日のようにテレビ、インターネット、書物などを通して、「腰痛を防ぐためには!」「鍛えて弱った部分を強くし、元気になろう!」「沢山歩いて脂肪を燃やそう!」 「ストレッチをして身体を柔らかくしよう!」などなど、すさまじい数の情報が氾濫しています。どれもが一理あることを述べてるのは確かでしょうし、効果もある程度期待できるから 多くの人々が夢中になるのです。 しかし、どのワークを見ても、個々人が長年蓄積してきた不必要な「癖」に関しては、全くといっていいほど言及しません。 つまり、個々人がすでに持ち合わせているものには触れず、そこに“付け加える”ことばかりなのです。

 例えば、身体を柔らかくするための運動では、その説明では、「この部分を伸ばしましょう。捻った状態で両手のひらを合わせましょう。このあたりにはこの筋肉があって、 これが刺激されると、こういった効果が期待できます・・・・。」と、こんな感じです。また、スポーツジムに行くと、トレーナーから言われることは、「測定の結果、この部分が弱いようなので、 強化する必要があると思います。そうすれば、心肺機能を強化することができます。では、こういったメニューでトレーニングしていきましょうか・・」と。

  果たして、それでいいの?と大きな疑問が浮かび上がってきます。

 人によっては、右肩が上がったままの人がいれば、猫背気味の人もいます。頭が片方に傾いている人、片足ばかりに体重を掛けて歩く人もいます。 この状態のまま“付け足し”の活動を要求しても、効果を期待するどころか、 歪みを、猫背を、首の傾きを、さらにひどくしてしまう可能性の方が大きいのです。これらの癖は、 その人たちが長年蓄積してきたもの(筋肉の緊張、硬直、悪い使い方)の集大成です。実践する側からすれば、達成感・効果を得たいが為に、言われたことを忠実に実行しようとするでしょう。 そうすれば、するほど、悪循環に陥ってしまうのです。この状況に陥りながら、本当に心肺機能が向上するのだろうか?という疑問にかられてしまいます。そして大抵の場合、それに対する自覚が全くない(堕落した感覚認識)ために、最終的に怪我や痛みと付き合うことになるのです。

 「癖」というくせ者を自覚しない限り、その上への“付け足し”は、単なる厄介者の追加に過ぎません。

  アレクサンダー・テクニークが、どうして非常に簡単な動き(座ったり、立ったりなど)の繰り返しを重要視するのかというと、最小限の基本的な動きを用いて、その人が持っている癖、習慣、間違った使い方を自覚し、堕落した感覚を認める過程を大切にしているからだと私は考えます。もっとも効率的な活動を再学習していくためにも、 何をしなくていいのか?不必要なことは何なのか?を認識する必要があるのです。アレクサンダーの言う、Inhibition(抑制)、Non-doing(何もしないこと)、Leaving oneself alone(ほったらかしにすること)、Unreliable sensory appriciation(信頼できない感覚認識)がそれらの意味を含んでいます。


  我々は皆、子供の頃、究極の素晴らしいバランス感覚を持っています。

 歩き立ちを始めた乳児を見れば分かりますが、彼らは彼らの時点で持っている機能をフルに有効利用しながら大きな頭 を支えつつ立ち上がり歩き出します。大人に比べれば非常に大きい割合を占める頭を支えているにも関わらず、彼らの身体には不必要な緊張もなくナチュラルで美しい。 しかし年齢を重ね、精神的にもあらゆることを学習していく過程で、徐々にバランスは崩れ、歩き出した頃の美しさを失い始めます。 小学校高学年ごろになると、背を丸め首を後ろにもたげ始めるのに気づく方は多いでしょう。(悪い姿勢による視力の低下が現れ始めるものこの頃でしょう。)そして反抗期を迎える時期になると、「他人にどう観られるか?」を非常に気にするようになり、歩き方、立ち方、 動き方を色々な環境やメディア等に影響されながら作り上げようとします。 いい見本ばかりが周囲にあるわけではありません。本人には無意識の段階で、 徐々に様々な癖や習慣が積み重ねられていきます。

 そういった過程を通して人格形成をしていくのでしょうが、意外と眼中にない「自分自身の使い方」に対する無知さが、人格に与える影響は非常に大きいものです。

 最近、私自身の子供の頃の写真を取り出して見てみたのですが、我ながら本当に美しい(自分で言うのも変ですが)!! その空間に溶け込み、重力の向かう方向にしなやかになびくように立っている。 しかし中学生の頃になると、身体は前かがみ気味になり始めています。 激しい運動を行っていたこともあって、怪我に出会うことも多くなり、 高校生の頃にはすでに肩こりに悩まされていました。 その後、益々鎧を全身に身につけていく私が写真の中にいました。勿論、精神的にも。 私が経験してきた様々な事が蓄積され、肉体的にも精神的にもガチガチに硬直した自分が作られていったのです。

 以前はこれらのことには全く気づかなかったのですが、今になると不必要なものを多く持ち越していることに気づいて愕然としてしまいます。もし、もっと早い段階でテクニックに出会っていれば・・・。あらゆることに直面しつつも、自分の持つ能力を効果的に使いこなす術を持てたのではないかと思うのです。 怪我やストレスを最小限に防げたのではないかと・・。

 アレクサンダー自身もこの「予防」の観点を特に重視しており、早い時期での教育の必要性を説いています。「もっと早くに・・・・」と思いつつも、今の私は、あの美しい立ち姿の子供の頃の自分に近づいているように感じています。なぜなら、初めて立ち上がった頃にきっと感じたであろう快感を、今また実感できるからです。そして、精神的にも穏やかになりました。

 “Coming Home!” 「アレクサンダー・テクニークを一言で表現すると?」という質問に対する友人の言葉が忘れられません。 正にこの感じです!


 昨年子宮筋腫が見つかり摘出手術を受けました。

 その際、開腹手術によりできた傷跡は約12センチ!術後の痛みも私にとっては相当なものです。 (他の大手術を受けられた方々の場合、こんなものではないでしょうが・・) 痛みによって身体中がガチガチに硬直していました。首や肩の緊張は特にひどい。当然といえば当然なのですが、 ふと思いついたのです。

「“本来の痛み”以外のものは生み出さないようにしよう!」

 つまり自分自身で作り出してしまう反応による緊張や硬直は極力起こさないようにしよう、 と思ったのです。

 “痛み”は痛みとして受け入れること。そして、必要以上に干渉しないこと。アレクサンダーが言うプライマリーコントロールを妨げないように「首が楽になって、そうすると頭が前と上にいくことができ、背中も長く広くなることができる・・・・」と、天井を見上げつつ病院のベットの上で自分に語りかけたのです。「傷は時間を掛ければ徐々に良くなる。余計なことをしないのよ~」と自分に何度も言い聞かせながら。

 そして術後初めて立ち上がる瞬間。レッスンで学んだことを思い出しながら、傷口にだけ集中するのではなく、全体を感じながら静かに立ち上がったのです。「ええ???」看護師さんのびっくりした顔。 「どうしてそんなに簡単に??」と。私自身もびっくりするぐらい穏やかでした。そして退院後再びレッスンを受け始め、非常に速いスピードで回復していったのです。

 ひょんなことで、このテクニックの効果を実感する場をもてたのですが、いかにリハビリテーションの現場で必要なものであるかということも実感しました。 単に身体の使い方のみならず、意識的な考え方、捉え方、心の持ちようなどその影響は非常に大きいものでした。以前の私ならば、この手術をきっかけとして、新たな癖、緊張、硬直を身に付けていたに違いありません。 誰しも怪我をすることはありますし、手術を受けなければならないこともあります。しかし、それにどう対峙していくかが非常に重要なのです。

 痛み止め薬を飲み、栄養に気をつけながら回復を促していくことと同じぐらいに、「どのように自分自身を使っていくか?」 ということも必要不可欠な回復薬なのだと思います。

*しかし残念なことに、現在の一般的な“回復”を促す方法論では、その殆どが「部分的な能力回復」にあてられているように感じます。勿論、それは必要なことです。しかし、人間のトータルな機能を見据えた部分回復でなければ、単に弱った部分を強化するだけに留まってしまいます。そして皮肉にも、“アンバランス”を生み出すことになるのです。


私は中学時代からいわゆる“体育会系”の人間です。

 そして指導者としての勉強を積んだ後、「保健体育教師」として現場に立ってきました。 その現場では、長年の指導経験から蓄積された指導法を実践し、実績を残す素晴らしい多くの先生方にも出会いました。 皆、情熱家でタフで活動的です。しかし、すべての人が必ずといっていいほど「故障」を抱えています。 日常はそのタフさによって隠蔽されているのですが、実にひどい状態を隠している人は多いのです。 長年蓄積された無理によって持ち越してきたものなのでしょうが、厄介なことは、「それは当たり前なことだ。 故障を持っていることは勲章だ」というような感覚を、殆どの指導者が持ち合わせていることです。 “痛みを我慢し、無理をすること”を“仕方のないこと(あるいは格好いいこと)”として認識しているのです。現に私もそうでした。それを当たり前のように教え込まれ、指導者として生徒に要求していました。勿論、どの競技においても ある程度のレベルに行くためには“根性論”は必要です。しかし、この故障を抱えた指導者の体の使い方や考え方が、毎日接している生徒たちに多大な影響を与えているということには、全く意識がありません。

  生徒たちは毎日指導者の動きを観察し、「先生のように上手くなりたい」という気持ちでそれを真似ます。 指導者と生徒との関係が密な場合ほど、この“真似”の作用は非常に強くなります。実際、指導者にそっくりな動きをする生徒を引き連れているグループを見つけ出すことはたやすいことです。 (私の場合も「あなたのコピーが沢山いるわね」と言われた事が何度もあります!)そして残念なことに、悪い癖、習慣までをもコピーしているのです。 教える側は、自分が経験してきたことを核として指導方法を組み上げていくものですが、そこには悪い癖や習慣も実は非常に大きな割合で含まれているのです。故障を抱える多くの指導者によって、いずれ同じ悪循環に陥る可能性のある多くの生徒を生み出しているのです。 勿論、個々人によって持っている体質、体格、性格などは異なり、全く同じ条件を持ち合わせている者はいません。 よって皆が同じ故障を起こすとは言えません。しかし、受け取る情報の重大さは認識すべきです。指導する側も自分の癖を伝達しているということを認識すべきであり、根性論に頼るだけでなく、そのことについてもっと真剣に考え捉えるべきです。それが回りまわって、情熱を注ぐ教え子たちへのプラスの影響になるはずです。

 これは、私自身の指導経験の中でも、非常に大きな反省点の一つなのです。もっと根本的な「心身の機能を生かす」ということに私自身が無知であったため 、「故障は付き物よ!」などど考えながら、 多くの問題を抱えたまま教え続けてきました。しかし、それは私だけの問題ではなく、私に指導された生徒たちにも 多くの影響を及ぼしていたのです。ストレッチ一つにしても、生徒の身体に手を当て「さあ、もう少し!」と毎日けし掛けていました。表面的、部分的な筋肉を見ながら、伸展を促していたような気がします。 そして多くの問題を抱えた私の身体の一部である“手”から、“筋肉の伸展とはこういった感じ・・”といった情報を生徒たちの身体に日々伝え続けていたのです。よくよく考えると、恐ろしいことをしていたのです。

 これは、教育現場に限らず、親子関係などあらゆる場面でも同じことです。
母親の歩き方をそっくりそのままコピーしたような子供。
ガチガチに硬直した手で治療するマッサージ師など。
人は互いに影響を与えつつ存在します。良いも悪いも・・・・。

(*よって、アレクサンダー・テクニークの教師養成コースでは「教師自身が良い使い方の意味を深く理解し、実践できるようになること」が重要課題のひとつとされています)